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松江地方裁判所 昭和32年(わ)73号 判決

被告人 尼川啓吾

明三七・四・三〇生 衣料品、雑貨商

主文

被告人を懲役六年に処する。

領置に係る証第一号の焼け残り座布団一七枚、証第二号の火箸一組二本並びに証第三及び第四号の破損せる火鉢二箇分は、いずれもこれを没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、島根県邑智郡市木村に生れ、高等小学卒業後、郷里で製鉄工場に見習事務員として採用され、次で、農会、村役場に勤め、二一、二歳の頃京都市に出て商売を覚え、その後、満洲に渡つて商業を営んだが、三年位で内地に帰り、再び京都市内に居住しつゝ神戸市において繊維製品の貿易業に関係していたが、昭和一九年頃、家族を伴い郷里に近い肩書本籍地に疎開し、終戦後も引続き居住することになつて、昭和二一年頃、江津市大字跡市一、五七九番地の一筆の宅地を畑と共に買求め、他から譲受けた家屋を解体し、これを利用して、同所に木造瓦葺二階建居宅一棟建坪三二坪七合五勺外二階二〇坪を建築し、(以下、略して本宅と称する)以て、同所を一家の新なる住所と定め、昭和二五年頃から衣料品、雑貨商を始めたが、昭和二九年頃、当時同市同大字三八二番地にあつた石見林業株式会社所有の倉庫兼事務所一棟建坪三〇坪外二階五坪を敷地と共に買求めた上、これを改造して、階下を店舖に、二階を店番用の居間(六畳)一室に設備し、(以下、略して店舖と称する)爾来、営業の場所をこれに移し、「東京屋」という商号で、本宅に居住しつゝ衣料品の外、ゴム履物、雨合羽等雑貨品の小売商を営み、当初は、母シツヨが長男誠及び弐男健次郎と共に店番に当り、次で、昭和三〇年五月、母シツヨ死亡し、更に、同年九月、長男誠が親戚に引取られて大阪市に出てからは、長女美鶴が弐男健次郎と共に、店番として店舖二階六畳の間に起居することになり、最初の頃は、経営状態も比較的良好であつたものゝ、被告人は、跡市中学校建設促進会長とか、跡市商店会長等を引受け、その関係の仕事に追われて、店舖の経営は、次第に疎になり、何時しか、その営業を殆んど美鶴に任せきりにするに至つたが、美鶴は、若年である上、商売に不馴れの関係もあつて、兎角その営業は不振に赴くようになり、殊に、店舖移転の際、多額の出費を余儀なくされた結果、負債が重なつたのみか、その頃から、商品の売行は逐次悪化の一途を辿り、売残り商品も仕入先たる問屋筋に対し返品の時機を失つている間に、その在庫品はみるみる増大し、一方、商品を仕入れた際の約束手形や為替手形も、満期日の到来する毎に、これが始末を迫られながら、次第に滞り勝ちとなり、その支払の猶予を懇請しつゝ書換を繰返し、又従前から松江相互銀行江津支店、江津信用金庫等各方面の金融機関、その他、知人や親戚等より、資金の融通を受けて来た金額も嵩み、遂に、昭和三二年八、九月頃には、買掛金や借入金の負債総額も四〇〇万円以上に達し、而かも、期限の差迫つている分も尠くないのにこれが対策立たず、他方、又、軈て秋、冬物衣料品の仕入もなさなければならない時期になつているのに、手形書換の際の延滞利息の支払にさえ事欠く有様であり、従つて、この侭行けば被告人として、一家の破綻は必至であり、惹いては、地元での成功者を以て自認し、且、幾つかの名誉職的肩書を持つ有力者としての社会的体面を失墜して仕舞うところから、これを恐れ、窮状打開のため、彼此苦慮していた折柄、昭和三二年九月一二日、美鶴が被告人の使者として、商工組合中央金庫松江支所において、本宅家屋に金六〇万円を極度額とする根抵当権を設定した上、金二五万円を借受けた際、同支所係員より、質権設定の必要上、同支所の代理店となつている安田火災海上保険株式会社(以下、略して安田火災と称する)との間に、本宅家屋を目的とする金八〇万円の保険契約締結方指示され、これが手続をなすことを余儀なくされたが、(契約日付は九月一三日。保険料は右借受金より控除)美鶴からその報告を受けた被告人は、曩に同年五月二一日、本宅家屋及び家財一式を興亜火災海上保険株式会社(以下、略して興亜火災と称する)の金二五〇万円の保険に付し、漸く同年八月二七日、その保険料を支払つたばかりであり、又、同年八月三一日には、山陰合同銀行都野津支店よりの借入金につき、根抵当権を設定した関係で、本宅家屋のみを目的として、同和火災海上保険株式会社(以下、略して同和火災と称する)との間に金一五万円の保険契約を締結したことを想起し、差迫つた如上の資金調達の必要から、窮余、本件本宅家屋放火による保険金入手の外なしと考えるに至つたが、合計金三四五万円の保険金では、なお、負債の整理にさえ十分でないのみならず、安田火災の金八〇万円のうち金六〇万円及び同和火災の金一五万円には、いずれも金融機関に対する債務につき、質権の設定がなされているところから、この際、重ねて本宅内にある家財、商品等をも安田火災の保険に付して置いた上、機会を拵えて決行せんものと考え、よつて、先ず同年九月一九日、被告人自身同支所に赴き、同支所扱で安田火災との間に、本宅内にある商品、家具及び営業用什器各一式を目的とし、合計金二〇〇万円の保険契約を締結して、即日、その保険料を支払つたが、爾来、放火実行の具体的方法と時機につき、如何にして放火の嫌疑を免れつゝこれを遂行し得るか等思い繞らすうち、偶、秋祭の大売出等に関し、跡市商店会の会合が会長たる被告人の本宅で催されるべく予定されていたことを想い浮べ、ここにおいて被告人は、この会合終了後、一家全員が留守になつてから、偶、火災が発生するに至つたものと見せかけようと企て、先ず、右会合を同月二六日夜催すべく決めた上、これを会員に通知し、次で、当日の朝、妻ツルエの反対も押しきり、長女美鶴をして、商品仕入のため、広島市に向け出発せしめると共に、妻ツルエ及び弐女さゆりに対しては、当日夜美鶴が留守であるからとて、本宅から店舖に出て寝泊りすべく指示し、同日夜の会合は、結局協議が纒まらず、引続き翌日の夜にも集合することになつたが、当夜午後一一時三〇分頃、会合が終了してから一人で本宅に居残つた被告人は、かねて計画のとおり放火を決行せんとしたが、当夜は風が強くなるということを聞いてもいたし、躊躇しているうち良心に強く咎められて実行に着手し得ない侭、店舖に赴いて泊つたものゝ右計画は、到底これを諦めきれず、翌二七日朝、長女美鶴が広島市から帰宅するや、被告人は美鶴に対し、重ねて、前日同様、今度は大阪市に出かけるべく指示し、同日午後「仕入資金は、明日松江に出て、商工中金で五万円位調達して送るから、大阪の牧方で待つておれ」と申向けた上、美鶴をして大阪市に向け出発せしめると共に、妻ツルエ及び弐女さゆりに対しては、引続き店舖で寝泊りすべく指示し、同日夜の本宅階下南側中央六畳の間における会合には、一〇名位の会員が集合し、共に飲酒したが、午後一一時三〇分頃、会合が終了し、集合せる会員全部辞去した後、一人で本宅に居残つた被告人は、直ちに放火を決行せんとしたが、前夜と同様、暫く逡巡して実行するに至らず、諦めきれない侭、一旦、本宅から店舖に赴いたものゝ、月末を控えて期限の迫つている借入金、手形の利息、山積せる債務の整理等、破綻に瀕しつゝある前記経済面での窮境を想起し、これが破綻に伴う自己の社会的体面の失墜の不安に駆られて焦慮するうち、幸にして今夜は近隣に類焼の虞も尠い無風状態である上、今夜決行せざれば、一両日中に美鶴も帰宅し、遂には、絶好の機会を失つて仕舞うと考え一一時五〇分頃、遂に、意を決して再び本宅に引返したが、こゝにおいて、先ず、階下北側台所板の間において、大瀬戸火鉢から燃えている長さ二、三寸、直経七、八分の炭火二、三塊を火箸で取出してこれを台所用冬座布団の上に乗せ、口で強く吹いて火勢を募らせ、次て、火が燃え移つた右座布団を炭火を包むようにして二つに折曲げ、これを右階下南側中央六畳の間の西北隅辺に、(即ち、台所と玄関上り口寄りに)積み重ねてあつた一七枚の座布団の上に乗せた上、数回右炭火及び上の座布団の燃えている箇所を口で強く吹いて火勢を強め、程なく下の座布団に延焼せしめたが、更に、台所から菜種油が一合位残つている三、四合入の瓶及びマツチを持つて来て、燃えている座布団の火の周囲に右油全部を撤き散らし、続いて、近くの玄関土間の板敷の上から包装用ハトロン紙入長さ二尺六寸位、巾一尺三寸位のダンボールケース二箇分を繩で絡んだものを持つて来て、これを玄関上り口板の間の北隅付近に並べてあつた二箇の瀬戸火鉢(玄関上り口板の間の北隅に積み重ねてあつた夏座布団二五枚入ダンボールケース三箇の手前、即ち、六畳の間の西北隅辺に積み重ねてあつた右一七枚の座布団の傍に並べてあつたもの)の上に乗せ、この火鉢を台にして燃えている座布団の火の辺に立てかけ、中のハトロン紙を上の方に引出して垂らし、これに座布団の火が燃え移るようにした上、右ハトロン紙を下の方からも引出して右マツチでこれを点火し、なお、台所の大瀬戸火鉢から燃えている長さ三寸位、直経一寸位の炭火一塊を発見し、これを火箸で挾んで来て、燃えている座布団の上部に置いたところ、程なく焔は、右積み重ねてあつた夏座布団入ダンボールケースに、次で、その北側の襖に燃え移り、よつて、翌二八日午前二時三〇分過頃、現に、被告人の妻ツルエ等家族の住居に使用する本件本宅家屋をして全焼するに至らしめたものである。

(証拠)(略)

第一、本件火災発生の箇所及び火災の原因に関する点について

一、火災発生の箇所

この点につき、弁護人は、火災の早期発見者と目すべき者として、数名の者を掲げ、その司法警察員若しくは検察官に対する供述、或いは、公判廷等における証言を根拠として、「本件火災発生の時刻は、一時三〇分直前であつて、二時過頃焔上したものである。即ち、一二時から二時までの間、階下に焔はなく、二時三〇分以後に、火が階上より階下に移つたのである。仮に、一二時頃階下で発火し、これが襖に燃え移つたとすれば本宅家屋は、三〇分間で焼け落ちていなければならないのに、二時間も過ぎてから階上で火焔を噴出したということは、不自然であつて、かゝることは、絶対にあり得ない。階下六畳の間の燃焼の程度が最強度であつたのは、階上の物件が其所に焼け落ちて燃えたためであり、火災発生の箇所は、実際は、二階の前側(南側)であるとみるのが合理的である」旨主張するところ、比較的早期に火災を望見した者は、弁護人の掲げる数名の者のみではない。(弁護人が掲げる分の外、寺本虎雄の司法警察員に対する供述調書、同人の検察官に対する一一月一日付供述調書、当裁判所の証人佐々木正信、林政雄、江頭繁、佐々木好治及び志窪真市に対する各尋問調書、第三回公判調書中、証人山藤智一の供述記載部分、第四回公判調書中、証人横田正の供述記載部分等参照。)関係者は、それぞれ「最初は、階下は燃えていなかつたと思う」とか、「二階の中程から火を吹き出していたが、階下は、まだ火は出ていなかつた。尤も、雨戸があつてよく見えなかつた」とか、「発見のときから一〇分位後、階下の雨戸が焼けて少し火が吹き出るようになつていた」とか、「二階はよく燃えておつて、雨戸なく、階下も両戸の隙間から火が見えていた」とか、「バケツに水を汲んで持つて行つたが、一面に火が廻つており、付近に近寄ることができなかつた」とか、「商品の一つでも持ち出そうと思つたが、二階の屋根の庇から火が盛に出ており、階下も盛に燃えておつて、中に這入ることができなかつた」等供述し、各供述の内容、表現等は、一見まことに区々であるようであるものゝいずれも各自直感による印象に基く供述であり、実際は、火災を望見した場所と現場との方角及び距離的関係、望見者の注意力の程度、或いは、取調を受けた際の記憶の程度等の差異により、供述の内容、表現等に、自ら或る程度の差異の生ずることは、寧ろ当然である。それ等の供述を通じて考察すれば、近隣居住者が火災を発見した頃は、階下も既に火が一帯に拡がり、家財道具等を持出すことも殆んど不可能の状態であつたこと、即ち、屋内を殆んど焼き尽し、家屋が焼け落ちる直前に外部から発見されたことが窺われる。抑も、火災発生の箇所とか、発生してから燃え上るまでの時間的関係等を検討するに当り、家屋の構造、火災当夜の気象状況、火災現場の焼跡の模様、屋根が焼け落ちた時機等重要な事項に眼を蔽い、単に、関係者の供述の断片的一部分のみを捉えて速断することは、極めて危険であるといわなければならない。各火災保険会社の責任者等が損害鑑定人と共に、火災の状況、損害の程度等につき、調査した際、被告人は本宅家屋の時価につき、延坪一坪当り四万円以上を主張したのであるが、これがかなり被告人の誇張に係るものであるとしても、尠くとも、本宅家屋がバラツク建程度のものでなかつたことは明らかである。又、階上、階下共雨戸が締めてあり、玄関のガラス戸は、擦ガラスであつたこと、而して、当夜は、殆んど無風状態であつたことも明らかである。凡そ、火焔はその性質上、特殊の条件の加わらない限り、常に、下から上に向つて燃え上つて行くことは、経験則上明らかなところ、本件火災鎮火後の現場の状態につき、司法警察員作成の実況見分調書末尾添付の写真の示すところと右実況見分調書中本件本宅家屋各部分の焼失状況に関する詳細な記載とを、前掲各証拠と前記火焔の性質に照して仔細に観察すれば、これ等証拠資料が本件火災発生の箇所として均しく指向しているところは、本宅家屋階下玄関上り口板の間北隅(更に、詳しくいえば、同所に積み重ねてあつた夏座布団入ダンボールケース付近)以外にはあり得ない。而して、本件の各種証拠中に占めるこれ等火災現場の基礎資料の重要性を否定せざる限り、火災発生の箇所を階下とする前示認定は動かし難い。(なお、ちなみに玄関上り口板の間の北隅に積み重ねてあつた夏座布団二五枚入ダンボールケース三箇の手前、即ち、六畳の間の西北隅辺に積み重ねてあつた一七枚の座布団の傍に並べてあつた二箇の瀬戸火鉢の位置が六畳の間と板の間との間の敷居から若干離れているかの如くみられるのは、右板の間が焼け落ちた際、或いは、他の原因によつて飛ばされたためであることは、西側の方の火鉢の底が下向になつていることにより、容易に窺われるところである。)

二、火災の原因

当裁判所が昭和三三年一月一六日現場検証を実施した際、弁護人は現場において、初めて「本件火災の原因は、本宅の二階における漏電である」旨主張した。ところで、被告人は、火災直後、江津市役所跡市支所において、消防吏員江頭繁に対し、本宅東側の納屋に浮浪者が寝ていた形跡がある旨申向けて、恰も、浮浪者が火災の原因に関係があるかの如く説明し、又、当日、即ち九月二八日、跡市巡査駐在所で、参考人として、石原警部補の取調を受けた際にも、右同趣旨の供述をなしているが、公判廷においては、「当初は、浮浪者が火災の原因に関係があると思つていたが、燃え具合から考え、現在では、漏電以外にないと思つている。この漏電ということは、勾留されてから考えるようになつた」旨供述している。(第六、第一〇及び第一七回公判)尼川ツルエの検察官に対する供述調書(一〇月二四日付)には、「本宅の電気には故障はなかつた。主人が火をつけたというのであれば、それが唯一つの原因と思う」旨の供述記載があり、又、被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月一九日付)にも、被告人の供述として「漏電で火事になつたことも考えられず、不審に思つている」旨の記載があるところ、証人尼川ツルエ及び同尼川美鶴(第四回公判)の各証言中、恰も、弁護人の前記主張に符合するかの如き各供述部分があるけれども、沖田末市の検察官に対する供述、森脇ビワの検察官に対する供述(一一月一日付供述調書の分)、証人盆子原貞道、同林栄、同細田鶴治、同手石一男、同佐々木重義及び同広瀬史朗の各証言、証第一〇四乃至第一〇七号の屋内線工事設計書その他配電施設関係書類等に照し、証人尼川ツルエ及び同尼川美鶴の右各証言は、いずれもこれを信用し難く、その他、弁護人の右漏電云々の主張は、これを首肯せしめるに足る資料が全くない。

三、火災発生の箇所付近で発見された火箸について

被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二九日付)には、本件放火に関する被告人の供述として、最初台所用冬座布団の上に炭火を乗せた際の模様につき、「大瀬戸火鉢から燃えている長さ二、三寸、直経七、八分の炭火二、三塊を火箸で取出して乗せた」旨の記載部分及び最後に、ハトロン紙を下の方からも引出して、マツチでこれに点火した後、台所の大瀬戸火鉢から残り火を発見した際の模様につき、「大瀬戸火鉢から燃えている長さ三寸位、直経一寸位の炭火一塊を発見し、これを火箸で挾んで来て、燃えている座布団の上部に置いた」旨の記載部分があるところ、司法警察員作成の実況見分調書によれば、実況見分の際、E地点敷居框の上に証第二号の火箸一組が置かれてあるのを発見した旨の記載部分があり、(同実況見分調書四の(二)の5の(9)参照)その末尾添付の写真第一一及び第一二により、右発見の際の状況が明らかである。証人森脇正の証言によれば、火箸は、通常置かれない場所にあつたので、特に、これを押収したことが明らかであるが、被告人の参考人としての司法警察員に対する供述調書(一〇月二日付第二及び第三項)及び司法警察員に対する供述調書(一〇月二〇日付第四項、一〇月二一日付の第二通目第三項)にも、被告人の供述として、火災当夜、鉄製火箸を使用したが、それは、証第二号の火箸に間違いない旨の記載があり、又、森岡マサ子は、川原巡査に対し、「商店会の会合の際、尼川は、炊事場の方から金製の二本の火箸で木炭二箇を持つて来て、七輪についで呉れたが、その火箸は、炊事場の方から持つて来て、又、炊事場の方に持つて帰つたと思う。自分のあたつていた七輪の付近にはなかつた」旨供述しているのである。(森岡マサ子の司法警察員に対する一〇月三日付供述調書第八及び第九項参照)然るに、被告人は、公判廷において、「証第二号の火箸は、ダンボールケースの所に置いていた客用火鉢にさしてあつたものである」とか、「火災当夜は、火箸ではなく、火鋏を使用した」等供述し、(第二及び第一五回公判)実況見分調書末尾添付の写真第一二につき、「実況見分の際、敷居の上に火箸を並べて写真を撮つていたと言つた者がある」旨供述し、「誰が言つたのか」との質問に対しては黙して答えなかつたところ、(第八回公判)次には、「帰つてから妻に聞いたら、実況見分の際、二人の警察官が壊れた火鉢から火箸を取出しこれを敷居の上に並べて写真を撮つたとのことであつて、実況見分調書の内容は、書き間違と思う。」旨供述しているが、(第九回公判)証人森脇正、川原大和の各証言に照し、被告人の右供述は、全く架空の事実を述べているに過ぎないことが明らかである。殊に、被告人が被疑者として逮捕されたのは、一〇月一九日であつて、火箸それ自体が問題として考えられるようになつたのは、逮捕以後のことであり、火災が発生した九月二八日当日森脇巡査部長その他係官によつて実況見分が行われた際、警察署側においては、本件火災を以て、全く原因不詳の不審火事件として取扱つていたことは、実況見分調書の記載自体によつても明らかである。なお、証人川原大和の証言によれば、嘗て警察官であつた前田重義なる人物が、本件審理中たる昭和三三年八月中、右実況見分の際の補助者の一人たる川原巡査をその自宅に訪れ、同巡査に対し「尼川の事件がもめていることを知つているか」とか、「君が火箸を他所から持つて来たのだと言つているぜ」等と申向けたのに対し、同巡査はこれを相手にしなかつたところ、更に、同年九月初頃、本件弁護人たる大脇弁護士が右前田重義を伴つて、川原巡査の自宅に赴き、同巡査に対して写真を示した上「この火箸は他所から持つて来たのではないか」とか、「消防団にも君が他所から持つて来たと言つている人があるではないか」等と追及したのに対し、同巡査は、「そんなことはない」とて、これを突撥ねたことが明らかであるところ、如上の経過は、固より、これを以て被告人の前記の如き供述を信用すべき根拠となし得ない。寧ろ、実況見分調書の前記火箸に関する部分の信用性を肯定せしめるに足る。

第二、本件火災当時における被告人の負債の状況に関する点について

一、負債の内容

昭和三〇年度以降の資金借入関係の内容は、証第六一、第六二及び第五〇号の各出納簿の記載、証第七〇号の約束手形二八通その他、約定書、借用証書、債務弁済契約証書等諸般の資料を通じて略々明瞭であるところ、本件火災当時における商品の仕入先に対する未払買掛金が合計八〇万円以上に達していたことも、これ亦明らかである。(昭和三三年四月一五日受付被告人名義「冒頭陳述書」と題する書面の別表のうち「尼川啓吾負債総額」と題するもの参照)ところで、従前主として店舗経営のため融資を受けた関係上生じた負債のうち、本件火災当時未払分の内容は、概ね、次のとおりである。

1 都野津信用組合関係

(都野津信用組合組合長理事正木文吉作成名義回答書、大崎正美の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、森木正富の検察官に対する供述調書等参照)

(イ) 金二〇万円

昭和三〇年一月一九日借入(担保なし七回手形切替)

支払期日 昭和三二年九月三〇日

(ロ) 金五万円

昭和三二年三月二九日借入(担保なし二回手形切替)

支払期日 昭和三二年九月三〇日

(右(イ)及び(ロ)の分は、昭和三二年八月一日手形切替の際、これを合併して一通の手形となす)

(ハ) 金一五万円

昭和三二年九月二五日借入(担保なし)

支払期日 昭和三二年九月二七日

(期日に支払すること能わず、翌二八日まで延期され度い旨申出)

2 江津信用金庫関係

(江津信用金庫作成名義回答書、藤田定市の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

(イ) 金四万円

昭和三一年六月七日借入

支払期日 昭和三二年九月二三日

(ロ) 金六六万円

昭和三一年六月七日借入

支払期日 昭和三二年九月二三日

(右(ロ)の分は、昭和二九年九月から借入昭和三一年五月三〇日、店舗及びその敷地に根抵当権設定、昭和三一年六月七日、新に右(イ)の分借入の際、(イ)及び(ロ)を合併して金七〇万円となす)

(ハ) 金五万円

昭和三二年八月五日借入(担保なし)

支払期日 昭和三二年八月三一日

(ニ) 金八、〇〇〇円

昭和三二年八月二六日借入(定期積金担保)

支払期日 昭和三二年九月二四日

(ホ) 金一〇万五、〇〇〇円

昭和三二年九月二四日借入(定期積金担保)

支払期日 昭和三二年一〇月二三日

(ヘ) 金二三万八、〇〇〇円

昭和三二年九月二四日借入(定期積金担保)

支払期日 昭和三二年一〇月二六日

3 山陰合同銀行都野津支店関係

(山陰合同銀行都野津支店支店長山下為義作成名義回答書、大浦生隆の検察官に対する供述調書、山下為義の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

(イ) 金一四万円

昭和二八年八月二九日借入(当初金一五万円、本宅及びその敷地に根抵当権設定、昭和三一年一一月二七日、金一万円内払)

支払期日 昭和三二年一〇月一二日

(ロ) 金一八万四、〇〇〇円

昭和三二年八月三一日借入(当初金二〇万円、分割払の約定、島根県信用保証協会の保証、昭和三二年九月分金一万六、〇〇〇円弁済)

支払期日 昭和三三年八月三一日

(ハ) 金一三万円

昭和三二年九月七日借入(定期積金担保)

支払期日 昭和三二年一〇月七日

(ニ) 金五万円

昭和三二年九月一八日借入(担保なし)

支払期日 昭和三二年一一月一八日

4 松江相互銀行江津支店関係

(松江相互銀行江津支店支店長樋野久一作成名義報告書、中田幸夫の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

(イ) 金二五万円

昭和三二年三月二六日借入(当初金三〇万円、分割払の約定、連帯保証、右借入の際、従前の借入金一八万円整理)

支払期日 昭和三五年九月三〇日

(ロ) 金一〇万円

昭和三二年七月二九日借入(定期預金担保)

支払期日 昭和三三年一月二九日

(ハ) 金一五万円

昭和三二年七月二九日借入(連帯保証)

支払期日 昭和三二年九月二六日

5 商工組合中央金庫松江支所関係

(商工組合中央金庫松江支所支所長久保博和作成名義報告書、安達明慶の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

(イ) 金一〇万円

昭和三二年一月二八日借入(当初金五〇万円、分割払の約定)

支払期日 昭和三二年一一月二七日

(ロ) 金五万円

昭和三二年五月九日借入(当初金一〇万円、定期預金担保)

支払期日 昭和三二年一二月七日

(ハ) 金一五万円

昭和三二年六月一七日借入(当初金二五万円、分割払の約定、島根県信用保証協会の保証)

支払期日 昭和三二年一二月一六日

(ニ) 金二五万円

昭和三二年九月一二日借入(本宅及びその敷地に根抵当権設定)

支払期日 昭和三三年七月一一日

6 国民金融公庫松江支所関係

(国民金融公庫松江支所作成名義回答書、藤田瑞夫の検察官に対する供述調書、証人佐々木清定の証言等参照)

金三六万円

昭和三二年七月五日借入(当初金四〇万円、分割払の約定、担保なし)

支払期日 昭和三四年三月五日

7 跡市農業協同組合関係

(原田厳の検察官に対する供述調書等参照)

(イ)  金一万五、〇〇〇円

昭和三一年八月一三日借入(当初金一〇万円、分割払の約定、保証人)

支払期日 昭和三一年一二月三〇日

(ロ)  金四万五、〇〇〇円

昭和三一年八月一三日借入(三浦一男名義、当初五万円、昭和三二年四月になつてから分割払の約定をなす、保証人)

支払期日 昭和三一年一二月三〇日

8 森川亀太郎(江津市大字跡市九五八)関係

(森川亀太郎の検察官に対する一〇月二五日付供述調書等参照)

(イ)  金一〇万円

昭和三二年五月四日借入(担保なし)

支払期日 昭和三二年一二月二七日(二回延期)

(ロ)  金一〇万円

昭和三二年六月四日借入(担保なし)

支払期日 昭和三二年一一月二日(一回延期)

9 盆子原正男(江津市大字跡市一五六)関係

(盆子原正男の検察官に対する供述調書、証第九八及び第九九号の借用証二通等参照)

(イ)  金五万円

昭和三二年一月一四日借入(保証人)

支払期日 昭和三二年一〇月三〇日(二回延期)

(ロ)  金一〇万円

昭和三二年五月二〇日借入(保証人)

支払期日 昭和三二年九月三〇日

10 尼川尚明(邑智郡市木村)関係

(尼川尚明及び尼川美鶴の検察官に対する各供述調書、証人尼川尚明及び第三回公判における証人尼川美鶴の各証言等参照)

金一五万円

昭和三二年五月二八日借入(担保なし)

支払期日 金五万円につき昭和三二年九月一〇日

金五万円につき同年一〇月末

金五万円につき同年一一月末

11 宮本重信(熊本県天草郡赤崎村)関係

(宮本重信の司法警察員に対する供述調書、証人尼川ツルエの証言等参照)

金五万円

昭和三一年八月二〇日借入(当初金一一万円、昭和三一年一二月三〇日及び昭和三二年八月初頃、合計金六万円内払、担保なし)

支払期日 昭和三一年一二月二五日

12 尼川政義(京都市右京区山嵯峨)関係

(尼川政義の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

金二万円

昭和三一年春借入(当初金五万円、昭和三一年九月頃金三万円内払、担保なし)

支払期日 約束なし

二、債権者の督促の事情、その支払の状況等

前記の如く、本件火災当時、被告人の債務のうち、既に、期限の到来せるもの、或いは、切迫せる分は尠からずあつたところ、被告人は、公判廷において、「火災当時手形の決済にはかなり苦労し、利息の支払にも苦しんでいたが、不義理をしたことはなく、資金に困つてもいなかつた」旨供述しているから、(第八及び第九回公判)前掲関係各証拠を通じ、当時の実情につき、検討を試みよう。

1、金融機関関係

自己の資本を有しない商人等中小企業者として、極めて有利な条件で運転資金を入手し得る方法の一たる商工組合中央金庫よりの融資に対し、大なる魅力を感ずることは、敢て贅言を要しない。右融資を受け得る程度如何が惹いては営業の死命を制するという事例は、決して尠からず、従つて、被告人が商工組合中央金庫松江支所に対する信用を維持せんがため、最も苦心したことは、これ亦当然であり、被告人が同支所に対する債務のうち、分割払の分二口につき、これが弁済のため、毎月かなりの無理を続けていたことは、諸般の証拠上明らかである。併しながら、被告人のその他の金融機関、例えば、都野津信用組合、江津信用金庫、山陰合同銀行都野津支店、松江相互銀行江津支店、国民金融公庫松江支所等に対する支払の状況、信用程度等が、商工組合中央金庫松江支所に対するそれとはかなり趣を異にするものであつたことは、到底これを否定し難い。前記第二の一の7の(イ)及び(ロ)の跡市農業協同組合関係の分にしても、その金額は、多額ではないが、被告人が支払をなさなかつたので、昭和三二年三月頃、係員が厳しく督促した結果、漸く同年四月から若干宛支払わざるを得ないようになつたのである。

2、知人関係

森川亀太郎、盆子原正男等知人より融資を受けた金額は、必ずしも多額であるとは称し得ないけれども、同人等から屡々支払方請求があつたこと、而して、被告人において、これが支払をなし得なかつたため、期限の到来する毎に、已むなく延期の申出をなさざるを得なかつたことが認められる。被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二五日付)には、被告人の供述として、「特に矢釜しく催促されたというようなものはなく、自分は微力ながら跡市では多少力も顔もあつたので、債権者が催促を遠慮したものと思うが、それだけ支払のできないことにつき心苦しく思つていた」旨の記載があるところ、知人よりの借入金につき、被告人は、公判廷において、「期限が来ても、利子さえ支払えばよかつた」旨供述しているが、金融業者でない盆子原正男等の好意により、融資を受けていた被告人として、支払のできないことにつき、他の債権者の場合以上に苦痛を感じていたことは、これ亦到底否定し難い。

3、親戚関係

(イ)  尼川尚明は、被告人と二従兄弟の間柄にある。同人が昭和三二年三月末頃市木中学校長を最後として退職し、退職金一二〇万円余の支給を受けたところ、これを聞知せる被告人は、同年五月末頃、「大阪に生地の仕入れに出かけるのに、現金を持つて行かないと高くつくのだが、これが手許にないので、二〇万円貸して呉れ」との書信を美鶴に持参せしめ、美鶴は、尚明が定期預金を担保として資金を調達するまで、二、三日間尚明方に滞在し、結局、一五万円借受けて帰宅したのである。被告人は、公判廷において、「右借入金を以て、手形の決済に充てたが、手形の決済資金であるから、即ち、仕入資金として借受けたものと思つている」旨供述しているが(第九回公判)、右借受の際、九月一〇日、一〇月末日、一一月末日を期限とする分割弁済の約束であつたところ、尚明が九月一二日頃、被告人に対し、「東京で修業中の弟に送金する必要上、第一回目の分の五万円を至急返済され度い」旨手紙で催促したに拘らず被告人は、これが支払をなし得なかつたのである。

(ロ)  宮本重信は、被告人の妻ツルエの弟である。昭和三一年八月二〇日頃、ツルエが重信宅を訪れ、被告人の営業資金として金一一万円を、同年一二月二五日までに返済するとの約束で借受け、同年一二月三〇日金三万円の内入弁済をなし、残額は未払の侭であつたところ、昭和三二年五月下旬頃、重信が右未払分の督促をも兼ねて被告人方に赴いた際、同年七月中に残額全部を支払うとの約束ができ、結局、被告人は漸く同年八月上旬頃、内入として金三万円の送金をなしたのである。よつて同年九月二一日頃、重信から速達便による手紙で、残額の支払方督促があつたに拘らず、被告人はこれが支払をなし得ない侭本件火災に至つたのである。

(ハ)  尼川政義は、被告人の実弟である。昭和三一年春頃、被告人が政義に融資方依頼したところ、同人は一応これを拒否したけれども、同人の妻が他から金五万円を調達した上、政義に代り、これを被告人に期限の定なく貸与したのである。而して、被告人は同年九月頃、金三万円の内入弁済をなしたけれども、残額は、未払の侭であつたのである。

右三口の債権者は、いずれも被告人の親族であり、同人等より融資を受けた金額は、これ亦必ずしも多額であるとは称し得ず、金融機関の場合の如き厳重な督促はなかつたとはいうものゝ、借受の際の事情に鑑み、被告人として、手許資金さえ自由になれば、先ず、同人等に対する支払を完了し度いとの意慾に駆られ、これをなし得ないため苦慮していたことは、諸般の証拠によつて容易にこれを窺うことができる。

三、昭和三二年七月から本件火災当時までの期間中における約束手形及び為替手形決済の事情を中心としてみた支払の状況等

1  約束手形関係(証第七〇号参照)

七分月

決済

二通(第一一枚目及び第一七枚目)

合計金一二万五、〇〇〇円

書換

三通(第七枚目、第一五枚目及び第一六枚目)

合計金一一二万五、〇〇〇円

八月分

決済

六通(第四枚目、第九枚目、第一〇枚目、第一二枚目、第一三枚目及び第二〇枚目)

合計金七九万円

書換

四通(第一四枚目、第一八枚目、第一九枚目及び第二三枚目)

合計金七一万五、〇〇〇円

九月分

決済

三通(第八枚目、第二一枚目及び第二六枚目)

合計金一八万円

書換

四通(第二二枚目、第二五枚目、第二七枚目及び第二八枚目)

合計金五九万七、〇〇〇円

(第二四枚目の分の決済状況不明)

2 為替手形関係(証第七一号参照)

七月分

決済

八通(第二五枚目、第二六枚目、第二七枚目、第三三枚目、第三四枚目、第三八枚目、第三九枚目及び第四二枚目)

合計金三〇万五、六〇七円

(第四三枚目及び第四八枚目の分の決済状況不明)

八月分

該当のものなし

(第四枚目及び第五〇枚目の分の決済状況不明)

九月分

決済

八通(第三七枚目、第四〇枚目、第四一枚目、第四五枚目、第四六枚目、第四七枚目、第四九枚目及び第五一枚目)

合計金二一万五、九七〇円

3 出雲市松川商店関係

(小山こと山名利和の検察官に対する供述調書等参照)

被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二五日付)には、被告人の供述として「出雲市松川商店には、八月一五日が期限となつていた商品代金二万五、〇〇〇円の分で、矢釜しく催促されていたものがあり、これを支払わないと、同商店から品物の仕入が不可能となるので困つていた」旨の記載があるところ、これは、前記証第七一号の為替手形のうち、第四五枚目の分に該当し、その支払が漸く九月二五日なされたことは、該手形及び証第五〇号の出納簿の記載によつて明らかである。その他、五月九日振出に係る約束手形三通((イ)金三万円 満期日七月一五日、(ロ)金二万円 満期日同月二五日、(ハ)金三万円 満期日同月三〇日)については、いずれも満期日に支払をなし得ず、漸く九月六日、元金に延滞利息を加算して新なる手形金額となし、改めて約束手形三通((イ)金三万一、三五〇円 満期日一〇月一五日、(ロ)金二万九〇〇円 満期日同月二五日、(ハ)金三万一、三五〇円 満期日同月三〇日)を書換振出したのである。

4 前記第二の一の4の(ハ)の金一五万円借入の事情

被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二五日付)には、被告人の供述として「五月三一日、松江相互銀行江津支店より、約束手形(証第七〇号の第一一枚目に該当)で金一〇万円を借入れていたが、支払期日の前日たる七月二九日、先ず、都野津信用組合に赴き、一、二時間で返還する約束で、大崎専務理事から金一〇万円を借用した上、これを以て、松江相互銀行江津支店で、一応右約束手形の支払をなし、改めて、同所において、金一五万円を借入れた上、これを以て、都野津信用組合の大崎専務理事に前記金一〇万円を返還すると共に、残額を以て、当日一時借をしていた林政雄の金二万円、有田兼五郎の金三万円を返還した」旨の記載があるところ、被告人も公判廷においてこれを認めており、(第八及び第一〇回公判)又、その事情は、証第五〇号の出納簿の記載によつても明らかである。而して、証第四七号の美鶴の日記によれば、(七月二九日から八月一日までの欄)右七月二九日当日、被告人が五万円程度の金策のため、長女美鶴をして大阪市に赴かしめたことが明らかであるが、当時、被告人が運転資金の入手に苦慮していたことは、動かし難いところである。

なお、七月二九日松江相互銀行江津支店より改めて借入れた前記金一五万円については、同支店から被告人に対し、期限前たる九月二〇日頃、期日案内という形式で予め支払方督促したところ、期日の前日たる九月二五日頃、被告人から九月三〇日まで延期され度い旨申出をなしたことも明らかである。

5 前記第二の一の1の(ハ)の金一五万円借入の事情

被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二五日付)には、被告人の供述として、「九月二五日、都野津信用組合で、大崎専務理事に懇請し、二日後の同月二七日には必ず返還するとの約束で、約束手形により金一五万円を借入れたが、当時組合は、預金と貸金とがアンバランスのため、一般貸付は極度に制限していた事情にあり、約束の期日に返還しなければ、理事として面目が立たないことになる」旨の記載があるところ、期日たる同月二七日朝、被告人は大崎専務理事に連絡し、「明日松江に出て、金策するから、少し待つて貰い度い」旨申出をなしたのであつて、火災当時被告人が運転資金の入手に極度に困窮していたことは、これ亦到底否定し難いところといわざるを得ない。

四、利息及び延滞金支払の状況、店舗の経営状態等

火災当時における負債の内容、その支払の状況等は、概ね、如上のとおりであるが、被告人が昭和三二年一月から火災当日までの期間中、資金の借入や手形書換の際支払つた利息及び延滞金の金額に関する点につき、証第五〇号の出納簿の記載内容を精査するに、右九箇月間利息及び延滞金として支払つた金額は、合計四〇万円余に達し、一箇月平均四万四、五千円となる。これと被告人方の月々の生活費や店舗売上金の金額とを対照してみるとき、被告人として、右利息及び延滞金の支払がかなり大きな負担であつたことは当然であり、被告人がその信用を維持せんがため、借入金の返済や、手形の決済に腐心していたことは、想像に余りありといわざるを得ない。約束手形書換の際、元金に延滞金を加算して新なる手形金額となすが如き、その際延滞金さえこれが支払をなし得る余裕のなかつたことを窺うに十分である。而かも、新なる借入金のうち、商品仕入のための純然たる運転資金に充てられる分は、極めて僅少であつて、その大半は、これを以て手形の決済に充てざるを得ない実情であつたことは、諸般の資料を通じ、計算上明らかである。巷間において、金融機関等に対し、数百万円或いは数千万円の負債のある商人にして、なお、運転資金に困らないという事例は、決して珍らしくない。併しながら、負債の金額と経営状態とは相対的関係に在る。即ち、経営状態の健全な商人と、被告人の如く、自己の資本を有せず、商品の仕入は、殆んど手形によつてこれをなし、而かも、これが始末のため新なる借入をなさざるを得ない商人とを同一に論じ得ないことは、寧ろ、一般の常識である。尼川美鶴、尼川ツルエ及び牧ユキエの司法警察員及び検察官に対する各供述、証人佐々木清定及び同尼川美鶴(第三回公判)の各証言等によれば、火災当時被告人が軈て秋、冬物衣料品の仕入もなさなければならない時期になつているのに、これが資金の入手につき、苦慮していたこと、その頃、本宅家屋を売却処分してこれを資金に換えるべく考えたことがあつたこと、大阪市に居住する被告人の妹牧ユキエに対し「手形の期限が来たので、もう一度助けて貰い度い」とて、手紙で融資方依頼した事実があつたこと等、被告人が窮状打開のため彼此苦慮していたことが明らかである。弁護人は、主として公判廷における被告人の供述を根拠とし「被告人の本件火災当時の負債は、前年同期のそれよりも五〇数万円減少し、反面、手持商品は漸増して商況は良好であつた」旨主張するところ、店舗の経営状態が良好になつたため負債が減少したということを首肯せしめるに足る資料は全くない。寧ろ、諸般の情況を通じ、被告人としては、昭和三二年になつてから仕入先を縮少せざるを得ないようになつたのが実情であつて、且、金融面における条件悪化のため、運転資金の回転が著しく円滑を欠き、計算上負債が減少したかの如き現象を呈したに過ぎないとみるのが合理的である。又、商品の売行が逐次悪化の一途を辿つていた折柄、手持商品の増加ということは、それ自体店舗の経営状態の健全でなかつたことを示すに止まり、これを目して商況が良好であつたということは、凡そ、社会通念に合しない。火災当時の店舗の経営状態は、証第四七号の美鶴の日記帖の記載によつても、略々これを窺い得るところ、右日記帖につき、弁護人は、「その内容は、文学女性のセンチメンタリズムにしか過ぎず、客観的事実に反する」旨主張するけれども、本来、日記というものは、他の者に見せるべき性質のものではなく、特殊の場合を除き、ありの儘の事実につき、偽のない感想を書くのが普通であつて、弁護人主張の如き理由によつて、これを一蹴し去ることが許されないことは、社会通念に照して当然である。(なお、証第四八号の私製葉書につき、被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二三日付)及び検察官に対する供述調書(一〇月三一日付)には、被告人の供述として「これは、保険金がとれた場合、借金整理の方法等につき、逮捕された日の前日の夜、寝ながら書いたものである」旨の記載があり、被告人は、公判廷においても、右類似の供述をなしているが、(第二及び第一三回公判)これによつても、火災当時、被告人として、負債の整理ということが極めて深刻な問題であつたことは、到底これを否定し得ない。)

第三、火災保険契約に関する点について

一、火災保険契約の内容

本件火災当時、被告人が締結していた火災保険契約のうち、本宅家屋或いは本宅の家財、商品等を目的とする分の内容は、概ね、次のとおりである。

1 興亜火災関係

(証第九一乃至第九三号の火災保険申込書写等関係書類、田島義則の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

契約締結の日時 昭和三二年五月二一日

保険の目的物  本宅家屋及び家財一式

保険金額    家屋につき、金一五〇万円

家財につき金一〇〇万円

保険料の金額  金一万六、二五〇円(ただし、八月二七日支払)

質権設定の有無 なし

2 安田火災関係

(証第八六及び第八七号の火災保険申込書写等関係書類、田中茂の司法警察員及び検察官に対する各供述調書等参照)

(イ) 契約締結の日時 昭和三二年九月一三日(ただし、九月一二日手続)

保険の目的物  本宅家屋

保険金額    金八〇万円

保険料の金額  金五、二〇〇円

質権設定の有無 商工組合中央金庫松江支所に対する債務(前記第二の一の5の(ニ)関係)につき設定(金六〇万円)

(ロ) 契約締結の日時 昭和三二年九月一九日

保険の目的物  本宅内商品、同家具一式及び同営業用什器一式

保険金額    商品につき金一五〇万円

家具につき金四〇万円

什器につき金一〇万円

保険料の金額  金一万四、五〇〇円

質権設定の有無 なし

3 同和火災関係

(証第九七号の火災保険申込書写、竹内四郎の検察官に対する供述調書等参照)

契約締結の日時 昭和三二年八月三一日

保険の目的物  本宅家屋

保険金額    金一五万円

保険料の金額  金一、〇二〇円

質権設定の有無 山陰合同銀行都野津支店に対する債務(前記第二の一の3の(イ)関係)につき設定(金一五万円)

二、火災保険契約締結の事情

右火災保険契約のうち、安田火災関係(イ)の保険金額金八〇万円の分は、前記第二の一の5の(ニ)の商工組合中央金庫松江支所関係借入の際、又、同和火災関係の保険金額金一五万円の分は、前記第二の一の3の(イ)の山陰合同銀行都野津支店関係借入の際、いずれも根抵当権設定の都合上締結したものである。ところで、興亜火災関係の五月二一日締結の保険金額合計金二五〇万円の分につき、被告人は、公判廷において「浜田の衣料屋が火災で焼けたのに、保険をかけていなかつたため困つたということを聞いたから、自分も保険をかけた」旨供述しているが、(第一〇回公判)実際にその保険料金一万六、二五〇円を支払つたのが八月二七日であることは、証第五〇号の出納簿の八月二七日の欄及び証第四七号美鶴の日記の八月二六日の欄の各記載によつて明らかである。火災前被告人が仕入資金の入手に窮した際、本宅家屋を売却処分してこれを資金に換えるべく考えたことがあつたこと、又、独語のように、保険に入り度いと言つていたことは、尼川ツルエの検察官に対する供述(一〇月二四日付供述調書の分)等によつて窺われるが、実際に、保険料金一万六、二五〇円を支払つた八月二七日当時、既に、被告人は火災保険に強い関心を抱いていたことが窺われる。次に、安田火災関係(ロ)の九月一九日締結の保険金額合計金二〇〇万円の分に関し、これが保険契約を締結した際の経過、事情につき、被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二四日付)には、被告人の供述として、判示の如き動機に基き、先ず、九月一二、三日頃、商工組合中央金庫松江支所係員に連絡して、火災保険契約締結に必要な関係書類の用紙を取寄せ、次で、同月一九日、被告人自身同支所に赴き、判示の如く保険契約を締結した旨の記載があるところ、被告人は、公判廷において「商業協同組合のことも一応了解ができたので、顔を立てるため加入したのであるが、かねてから財産保全のことを考えていたところ、偶商工中金の方から勧誘があつたので、チヤンスと思つて加入した」旨供述しており、(第八回公判)右契約締結当日、保険料金一万四、五〇〇円を支払つたことは、証第五〇号の出納簿によつて明らかであるが、(出納簿には、一万五、〇〇〇円と記載してある)当時の店舖の経営状態、負債の状況、殊に、その支払の状況等の外、環境の差異からみて、本宅の火災(近隣からの類焼)の危険性は、店舖のそれに比し、決して大きくなかつたと考えるのが常識的であること、被告人自身契約締結の手続に当つた際の事情等諸般の情況に照し、単に、被告人の火災保険に対する熱意が大きかつたというよりも、寧ろ、契約締結の際の心理状態は、異常のものであつたといわざるを得ない。(なお、ちなみに証第四二号の信用保証願書控八通には、生命保険に関する記載があるところ、第一生命保険相互会社松江支社長楓照男作成名義昭和三三年七月一日付回答書、跡市郵便局長作成名義昭和三三年六月三〇日付回答書、朝日生命保険相互会社松江支社作成名義昭和三三年七月一一日付回答書及び日本生命保険相互会社島根支社作成名義昭和三三年七月七日付回答書によれば、被告人が信用保証願書に、生命保険に関し、虚偽の内容の記載をなしたことが明らかであるのみならず、被告人の生命保険に対する関心の薄かつたことが窺われる。)

第四、火災前後における被告人の行動に関する点について

一、火災前、本宅から店舖に物件を運んだ事情

(尼川ツルエ及び尼川美鶴の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、尼川健次郎の司法警察員に対する供述調書、証人尼川ツルエの証言、司法警察員巡査部長森脇正作成の一〇月一九日付捜索差押調書及び一〇月二二日付領置調書等参照)

九月になつてから、被告人自身秘かに、各種物件を本宅から店舖に運んだのである。例えば、本宅階下南側八畳の間の仏壇の上の方にかけてあつた母の額入写真、右八畳の間の整理箪笥の上に置いてあつた長女美鶴の姫鏡台、本宅二階西側八畳の間にあつた被告人の白パナマ中折帽子及び茶冬中折帽子等の如きものであるが、被告人は、公判廷において「姫鏡台は、店の方に鏡がなかつたから持つて行つたのであり、帽子は、持出したのではなく、洗濯に出すためであつた」旨供述している。(第八及び第一〇回公判)併しながら、火災当時までの間に、右帽子の洗濯を依頼した形跡はない。而して、被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二一日付の第一通目の分)及び検察官に対する供述調書(一一月一日付)には、被告人の供述として「本件放火決意後、商品たる蚊張、洋服生地等を本宅から店舖に運び出した」旨の記載があるところ、右のうち商品たる蚊張(証第四九号の紙包装蚊張五張)は、本来、秋冬に向つて、店舖に運び出す必要のないものであるが、被告人は、公判廷において「蚊張は、九月一〇日頃持つて出たのであつて、時季外れではあるが、土木の請負をしている沢津という人が見せて呉れと言つていたので本宅に置いてあつた七帳のうち五帳を持つて出たのである」旨供述している。併しながら、司法警察員や検察官の取調の際、かゝる弁解をなさなかつた理由が明白でない。

二、長女美鶴を広島市及び大阪市に向け出発せしめたこと等の事情

(尼川美鶴及び尼川ツルエの司法警察員及び検察官に対する各供述調書、証人尼川ツルエの証言、証第四七号の美鶴の日記帳等参照)

九月二六、二七両日夜、被告人の本宅において、跡市商店会の会合が催されたのであるが、会長たる被告人は、当初、二四日夜催すことを決め、一旦、これを会員に通知したが、これを取止め、二六日夜催すべく変更した上、これを会員に通知し、結局、当夜は協議が纒まらず、引続き翌二七日夜にも集合することになつたが、二七日当夜の会合が終了して集合せる会員全部辞去した後、本件火災が発生したのである。その前後の経緯、事情は、諸般の証拠によつて明らかであるが、長女美鶴をして商品仕入のため、広島市に出かけさせることは、九月二〇日頃から一応予定していたが、その日取は未定であつたところ、右商店会の会合が催された日の前日たる二五日、被告人は突如美鶴に対し、翌日の一番で広島に出かけるべく指示し、よつて、美鶴は、翌二六日朝、三万円位の仕入資金を預かり、広島市に向け出発し、その翌二七日朝広島市から帰宅したこと、ところが、被告人は、美鶴に対し、重ねて前日同様、今度は大阪市に出かけるべく指示し、同日午後「仕入資金は、明日松江市に出て、商工中金で五万円位調達して送るから大阪の牧方で待つておれ」と申向けた上、旅費として二、一〇〇円を持たせ、美鶴をして大阪市に向け出発せしめたこと、最初、被告人が美鶴に対し広島に出かけるべく指示した際、妻ツルエが、「商店会の会合で忙しいから行かせなくてもよいではないか」とて不賛成の意を表したのに対し、被告人は、これを一蹴した上、ツルエに対し「美鶴が留守になるから、朝早くから店に行け。夜会合の場所には出なくてもよい」と申向け、以て、平常本宅で被告人と起居を共にしている妻ツルエ及び弐女さゆりに対し、本宅から店舖に出て寝泊りすべく指示したこと、而して、従前被告人自身本宅をあけて店舖に泊つたことは殆んどなかつたのであるが、右商店会の会合が催された九月二六、二七両日の夜は、被告人自身本宅から店舖に出て泊ることとし、被告人は、二晩共、寝巻に着替えず、シヤツとズボンの侭寝たことも明らかである。(尤も、火災後最初に参考人として石原警部補の取調を受けた際には、被告人は、火災当夜は寝巻を着て寝たかの如く供述している。被告人の参考人としての司法警察員に対する九月二八日付供述調書第一九項参照)被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二三日付)及び検察官に対する供述調書(一〇月二五日付、一〇月二九日付)には被告人の供述として、「商店会の会合の機会を利用し、会合の後の火の不始末と見せかけて放火することを決意し、二五日には、都野津信用組合より借入の一五万円と売上を合せ、諸払をして結局、手許現金は四万三、九〇一円あつたので、その中から仕入資金を持たせ二六日美鶴を広島に行かせた。又、二六日の手許現金は、八、九一一円であつたので、片道の旅費、小遣銭として二、一〇〇円を持たせ、二七日美鶴を大阪に行かせた」旨の記載があるところ、この点につき、被告人は公判廷において、「美鶴の広島行は、二〇日頃から予定していたのであつて、又、大阪にも突然行かしたのではない。美鶴を広島に行かせることにつき、妻ツルエが反対したのは事実であるが、ツルエは商売にはあまり関係せず、美鶴が広島に行けば、自分が店の方を見なければならないようになるので、反対したものと思う」旨供述し、(第一〇回公判)又、商店会の会合の際、被告人は浮浪者の徘徊する事実があつて物騒であるかの如く言い触らしていたのに拘らず、敢て被告人自身本宅から店舖に出て泊つたことの理由として「品物よりも身体が大事だからである」旨供述しているのであるが、(第九回公判)被告人の参考人としての司法警察員に対する供述調書(一〇月二日付第四項)には被告人の供述として「娘が商用で店を留守にするときは、妻が店に泊りに行き、自分は本宅に寝るのが普通であつた」旨の記載がある外、諸般の情況に照し、被告人自身本宅から店舖に出て泊つた点につき、被告人の公判廷における前記弁解は不自然であつて、これを首肯せしめるに足る資料がない。(なお、第三回公判における証人尼川美鶴の証言中「大阪に仕入に行くことは、自分から言い出したものである」旨の供述部分は、証第四七号の美鶴の日記帳の記載、その他、諸般の証拠に照し、これを信用することができない。)

三、浮浪者の徘徊する事実があるかの如く言い触らしたこと等の事情

(尼川美鶴及び寺本虎雄の検察官に対する各供述調書、尼川健次郎及び吉田恒治の司法警察員に対する各供述調書、尼川ツルエ、三浦一男及び森下サホ子の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、証人森脇豊政、志窪真市、森脇新衛門、佐々木正信、林政雄及び江頭繁の各証言等参照)

商店会の会合の席上における被告人の言動等の模様は、諸般の証拠によつて明らかであるが、九月二六日夜の会合の際、被告人は、参集せる一六、七名の会員に対し、「若い者が忠魂碑の中で寝ており、火事なんかで物騒だから、駐在所に届けて取締つて貰おうではないか」と提案する等、恰も、浮浪者の徘徊する事実のあるかの如く言い触らしたところ、参集せる会員連中としては、浮浪者の話は、このとき初めて被告人から聞いたものにしか過ぎない。次で、翌二七日午後弐男健次郎が学校から帰つてから本宅のラジオ(証第四六号のシヤープ五球ラジオ)を聞かんとした際、真空管が一箇紛失しているのを発見し、これを被告人に告げたところ、被告人は、「知らんで。誰かが這入つて盗つたのだろう」と答えたけれども、健次郎としては、格別盗人が這入つた形跡があるとは思わなかつたのである。二七日当夜の会合の際、被告人は、予め玄関上り口の人目につき易い場所に出して置いた右ラジオを参集せる一〇名位の会員に示し、「朝ラジオを聴いたのに、昼間聴かうと思つたら鳴らないので、開けてみたら、真空管がなくなつていたが、誰かに盗られたのではないか」と説明する等、恰も、浮浪者が本宅に侵入したかの如く言い触らし、当夜の本件火災後、即ち、翌二八日午前四時頃、江津市役所跡市支所において、消防吏員江頭繁から事情を聞かれた際にも、被告人は、商店会の会合の後火鉢や七輪は、炊事場の安全な場所に片付けて置いたということを前提とし、ラジオの真空管が紛失したということ、本宅東側の納屋に浮浪者が寝ていた形跡があるということ及び忠魂碑にも右同様、浮浪者が寝泊りした形跡があるということを説明し、又、同日朝、店舖において、火事見舞に来ていた妹婿三浦一男に対し「昨日昼間ラジオの真空管がなくなつていたが、おかしい者がおるんではないか」と告げたところ、これに対し、三浦は「誰もおらねば子供がわるさでもするで」と答えたのである。更に、被告人は、同日跡市巡査駐在所において、石原警部補に対し「不思議に思うことは、昨日の昼間ラジオの真空管一本を盗まれたことである。本宅横(東側)の物置に誰かが寝ることがあるように思つているが、不審者による火の使用かも判らんと思つている」旨供述しており、(被告人の参考人としての司法警察員に対する九月二八日付供述調書第二六及び第二七項)その後一〇月一九日にも、同警部補に対し、右同趣旨の供述を一層詳細になしているのであるが、(被告人の司法警察員に対する一〇月一九日付供述調書第一七項参照)浮浪者のことは、前年(昭和三一年)冬、浮浪者のような者が忠魂碑の中にいたということを妻ツルエが婦人会の席で聞いたことがあるのみで、その他何人も、本宅付近に浮浪者とか怪しい者がいたのを見た者も聞いた者もないのである。被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二一日付の第一通目の第一二及び第一三項)には、被告人の供述として「ラジオの真空管は、昼間自分がラジオから取出して裏山に投げ捨てゝ置いた。それは、出火の際警察から疑をかけられた場合、昼間の泥棒が怪しまれるようにすべく考えた計画である」旨の記載があり、又、検察官に対する供述調書(一〇月二九日付の第一八項、一一月一日付の第二項)にも、右同趣旨の供述記載があるところ、被告人は、公判廷において「浮浪者徘徊の噂は、実際の噂であつて、自分が言い触らしたものではない」旨供述しているのである。(第二、第八及び第九回公判)併しながら、本件火災当時、被告人の本宅付近に浮浪者が徘徊していたということは、これを首肯せしめるに足る資料が全くないし、抑も、浮浪者が本宅に侵入した事実があつたものと仮定し、その浮浪者が食物とか衣類等を窃取することはあり得るとしても、ラジオの中の真空管一箇のみを抜取つて窃取するということは通常考えられないところである。然らば、真空管一箇が紛失したという事実を前提とし、被告人がこれを以て恰も浮浪者の所為であるかの如く説明したことは、社会通念に照し、全く理解し難いところである。証人尼川ツルエの証言中、被告人の公判廷における前記弁解に符合する供述部分は、到底これを信用することができない。(なお、各火災保険会社の責任者等が損害鑑定人と共に、火災の状況、損害の程度等につき調査した際には、被告人は、積み重ねた座布団の間の煙草の吸殻、或いは、七輪の残火が出火の原因に関係のあるかの如く説明するに止め、浮浪者のことに関しては一切触れなかつたことは、後段第四の六において説示するとおりである。)

四、火災当夜、本宅から店舖にラジオ、高級衣類その他の物件を運んだ事情

(尼川健次郎の司法警察員に対する供述調書、尼川ツルエの司法警察員及び検察官に対する各供述調書、司法警察員作成の一〇月二三日付検証調書等参照)

火災当夜、被告人が本宅から風呂敷包にした証第四六号のシヤープ五球ラジオ一台、証第二八乃至第三〇号の合背広一揃及びハンガー一箇の外、風呂敷包にしたズボン二枚、一重着物、浴衣等を持出し、これが店舖に置いてあるのを翌朝妻ツルエが発見したのである。ツルエは、証人として取調を受けた際、「右のうち、ズボン二枚、一重着物、浴衣等の風呂敷包は、実際は、二、三日前自分が洗張に出すため持つて出ていたのに、警察署における取調の際は、勘違して、主人が火災当夜持出したように述べたのである」旨供述しているが、被告人や妻ツルエは、本宅を生活の本拠としていたのであるから、洗張に出すため、態々店舖に持出す必要はないし、右証言は、直ちにこれを信用し難い。又、被告人は、公判廷において、「合背広を持つて出たのは、二七日夜の会合も済み、翌二八日の一番で松江に出るのに着て行くためであつた。ラジオを持つて出たのは、弐男健次郎が進学の勉強をしなければならないのに、相撲気違で大勢の子供を寄せるため、かねてから、相撲放送のある期間中店舖に持つて出てやろうと考えていたが、当夜二回目本宅に靴をとりに帰つたとき、手持無沙汰であつたので、靴と一緒に持つて出たのである」旨供述しているが、翌日松江市に出かける際着るため合背広を持出したのであれば、ハンガーをも一緒に持出す必要はなかつた筈である。又、店舖には、弐男健次郎が起居していたのであるから、健次郎に聞かせないため、ラジオを店舖に持出すということ自体無意味である。而かも、翌二八日早朝松江市に出かけることになつていたというのであるが、その被告人が深夜本宅からラジオを持出し、これを店舖に運ぶということ自体不自然であるといわざるを得ない。ところで、被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二〇日付)及び検察官に対する供述調書(一〇月二九日付)には、被告人の供述として、本件放火直後、証第一二乃至第二五号の衣類をも証第二六及び第二七号の風呂敷に包んで本宅から持出しこれを店舖に運んだ旨の記載があるところ、右衣類が被告人方における高級衣類に属することについては、疑をさしはさむ余地がない。被告人は、公判廷において「右衣類は、火災当夜持出したのではなく、実際は、二日前の二五日に持出したのであるが、持出した目的は、京都の弟尼川政義に対する借金が二万円残つており、(前記第二の一の12に該当)当初、担保として服地三〇点を差入れていたが、その担保差換のため、衣類を送つて服地を返して貰い、洋服の既製品に仕立て一一月の誓文払に売出す心算であつた」旨供述しているのであるが、(第二、第六及び第八回公判)元来、尼川政義よりの借入については、当初から無担保、無期限であつたのであり、抑も、実弟たる政義に対する僅か二万円の残債務につき、担保差換のため、被告人や妻ツルエの高級衣類一〇数点を本宅から持出してこれを京都市に送るということ自体、極めて不自然であり、被告人の右弁解は、到底首肯し難いところである。

五、火災後、近隣居住者に質問したこと等の事情

(証人森下定明の証言等参照)

火災後の九月三〇日又は一〇月一日頃、被告人が九月二八日森脇巡査部長の行つた実況見分の際の模様につき、近隣に居住する森下定明に対し「警察は何を持つて帰つたか」と尋ねたところ、森下は「はつきり判らないが、火鉢と七輪位ではあるまいか」と答え、更に被告人が「そうか。近所の人は、火の出た場所はどの辺だと言つているであろうか」と尋ねたところ、これに対し森下は「火鉢や七輪を警察が持つて帰られたから、その方から出たのではなかろうかというのが世論ではあるまいか」と答えたのである。この事実は、公判廷において、被告人もこれを否定してはいないが、被告人が、九月二八日、石原警部補に対し「火災当夜、六畳の部屋の七輪を台所に持つて行き、残り火を台所の板の間にあつた瀬戸火鉢に移し入れて、それから七輪は、板の間に置かず、土間(家の中の土間)に置いた」旨供述し、(被告人の参考人としての司法警察員に対する九月二八日付供述調書第一四項参照)次で、一〇月二日に、同警部補に対し、前回の供述に間違つていた点があつたからこれを訂正するとて、「七輪は土間に下さず、台所の板の間に置いたと思う。七輪を火鉢の近くに寄せるようにして金火箸(長さ一尺前後の丸棒)を使つて七輪の火を火鉢に移して始末した。火箸は瀬戸火鉢の中に置いたと思う」旨供述し、(被告人の参考人としての司法警察員に対する一月二日付供述調書第二及び第三項参照)更に、一〇月一九日逮捕された当日、同警部補に対し、「七輪は台所の板座敷の上に火鉢の横に置き、火種は火鉢の中に入れて始末したと訂正したのは、焼跡を見た妻が七輪の置場は台所の土間でなかつたと知らせたから、自信のない侭訂正したのであるが、よくよく考えて思い返してみると、矢張り最初供述したとおり台所の土間に置いたのが事実である」旨供述していることと考え合せるとき、(被告人の司法警察員に対する一〇月一九日付供述調書第一一乃至一三項参照)被告人が火災発生の箇所及び火災の原因に重要な関係があると考えられる可能性のある七輪の置場所に関し、警察官に対し、如何様に供述すべきか、その内容につき苦心していたところから、実況見分の模様につき異常な関心を懐いていたものであることは、否定し難いところであり、注目に値する。(なお、この点は、前記第一の三において、火災発生の箇所付近で発見された火箸について説示したところと密接な関係がある。)

六、損害鑑定人等の調査の際、これに資料を示したり説明したこと等の事情

(西田公夫、岩城吉一及び岩本文夫の司法警察員に対する各供述調書、安達明慶及び竹内四郎の検察官に対する各供述調書、田島義則、山下為義及び田中茂の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、証人菅野義雄の証言等参照)

本件火災の発生した九月二八日当日の朝、被告人が商工組合中央金庫松江支所の火災保険に関する事務をも担当する係員に対し「今朝本宅が全焼したので連絡するのであるが、種々よろしくお願する」旨電話で報告したところ、九月三〇日には、安田火災、興亜火災、同和火災の責任者等が損害鑑定人菅野義雄と共に現地に来て火災現場に臨み、火災の状況、損害の程度等につき調査したが、焼跡は既に片付けてあつたため、関係者は被告人の妹婿たる三浦一男方に参集し、必要事項につき、被告人から事情を聴取したのである。その際の情況は、諸般の証拠によつて明らかであるが、被告人の態度は極めて落着き、先ず出火の原因、箇所、時刻等につき「前の晩商店会の会合が終つてから一〇人位で酒を飲み、皆が帰つてから、敷いていた座布団を積み重ねて置いたが、座布団の間に煙草の吸殻が落ちていたのを知らずに積み重ねたため、それから火が出たのではないかと思う」とか、「或いは、七輪の残火の不始末かも知れない」とか、「出火の箇所は、階下六畳の間と思う」とか、「午前二時頃火災を知り、現場にかけつけたが、一面火になつており、物を持出すことができなかつた」等と説明したのである。(被告人が火災前、浮浪者の徘徊する事実があるかの如く言い触らし、火災後も、消防吏員や警察官に対し、恰も浮浪者が出火の原因に関係があるかの如く説明したことは、前記第四の三において説示したところであるが、各火災保険会社の責任者等が損害鑑定人と共に、火災の状況、損害の程度等につき調査した際には、右の如く、積み重ねた座布団の間の煙草の吸殻、或いは、七輪の残火が出火の原因に関係のあるかの如く説明するに止め、浮浪者のことに関しては一切触れなかつた。このことは注目に値する。即ち、この事実を通じ、被告人が出火の原因に関する説明をなす場合に備え、予め、相手方を異にするに従い、これに応じた説明の内容を準備して置いたものであることを窺うに十分である。)続いて、損害の程度につき、専ら二冊のノート即ち、証第一一号の商品台帳と題するもの及び証第一〇〇号の不動産什器覚と題するものを示した上、前者を以て本宅で焼失した商品、後者を以て焼失した本宅家屋及び家財、什器、衣類等の各品目、数量、価格の資料であるとなし、その説明をなしたところ、損害鑑定人等関係者としては、他に拠るべき資料がないため、被告人の主張を殆んど採用し、家屋全焼、その損害二一〇万円(延五二・七五坪の一坪当り四万円と計算した上、一万円を減額。被告人は四万円以上を主張)商品全焼、その損害一五〇万円、什器全焼、その損害五万円、家財道具全焼、その損害一四〇万円、結局、損害填補額合計金五〇五万円と認定するに至つた。要するに、被告人が損害鑑定人等関係者に示した証第一一号の商品台帳と題するノート及び証第一〇〇号の不動産什器覚と題するノートに記載してある物件が焼失したということにされたのであるから、一応、これが作成されるに至つた事情及び記載内容について検討する必要なしとしない。

1、証第一一号の商品台帳と題するノート

被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二四日付、同月二五日付、同月三一日付及び一一月六日付)には、被告人の供述として「九月一九日、安田火災との間に、保険金額合計金二〇〇万円の契約を締結してから、妻ツルエや長女美鶴に内密で各種物件を本宅から店舖に運んだが、本宅を焼燬した場合、二〇〇万円相当の品物が家具と共にあつて、これが焼失して仕舞つたということを保険会社等の関係者に対して主張する根拠とするため、証第一一号の商品台帳と題するものを作成したのである。右ノートには昭和三二年九月一〇日付と記載してあるが、実際は、放火決意の時、即ち、九月一二、三日頃一日で作成した。これは、保険契約締結前から、品物が現実に本宅にあつたということを示すためである。従つて、その記載内容は虚偽であつて、本宅には、それに記載してあるような品物は殆んどなかつた。赤インキ、赤鉛筆で記載した文字、数字、その他の線、丸印等は、すべて本件火災一両日後店舖で細工したのであるがそれは、保険契約締結当時からノート記載のとおりの品物があつて、これを出し入れした際には、その都度正確に記帳してあるということを示すためであり、即ち、保険会社関係者をしてその記載内容を信用させると共に、放火の嫌疑を免れんがためである。」旨の記載があるところ、被告人は、公判廷において「右商品台帳は、実際に九月一〇日に作成したものであつて、一二日頃ではない。商品名を書き、二重に仕入れをしないようにするため棚卸をしたのである」旨供述し(第一〇回公判)、弁護人は、被告人の弁解に基き、「右商品台帳は、商品を整理し、経営合理化に資せんがため、本宅内の商品を点検した上、作成したものである。各種記号(上、下、一部上、一部下、○、◎等)は、火災の数日後深い考もなく記入したものにしか過ぎないが、検察官に対し、これを以て作意による記入である旨供述しているのは、被告人の自白が迎合的供述であることの一例である」旨主張するが、右ノートの中の「全部引出」と記載してある部分は、損害鑑定人等関係者の調査の際には記載してなく、赤鉛筆による消線とか、大きく消してある線も、当時は消してなかつたのに、その後、被告人が記入したものであることが明らかであつて、この点につき、被告人の検察官に対する供述調書(一一月六日付)には、被告人の供述として「損害鑑定人等関係者の調査の際には、右ノートに記載してあるものは大部分焼失したと説明したが、その記載をその侭にして置けば、警察の取調の際、妻等の口と喰違が生ずることになるので、一〇月三日頃、店舖で虚偽の記入をしたのである。即ち、全部引出と記載してある部分とか、赤鉛筆による消線の部分の品物は、当初から本宅にはなかつたものであつて、そのことは、妻ツルエや長女美鶴が知つているので、真実のとおり、火災前全部本宅から店舖に運んで置いたため焼失を免れたこととして置いた方が安全であると考えた」旨の記載があるところ、尼川ツルエの検察官に対する供述調書(一〇月二四日付)中、同人の供述として「主人は商工中金の人に見せると言つて書きかけていたものを美鶴に示して、警察の調のときは、その品物が本宅に置いてあつたのが焼けたということを言えと言つていたことがある」旨の記載部分と対照して考察するとき、右の如く、損害鑑定人等関係者の調査が終つてから、右ノートに記入した事実により、右ノートは決して被告人が本宅内の商品の品目、数量、価格等につき、真実の内容を明らかにせんがため作成したものでないことが窺われ、敢てこれを損害鑑定人等関係者に示したということは、有利に保険金を入手せんがための資料として使用したものと考えざるを得ない。

2、証第一〇〇号の不動産什器覚と題するノート

被告人の検察官に対する供述調書(一一月六日付)には、被告人の供述として、「右不動産什器覚には、昭和三二年五月一日現在と記載してあるが、それは、虚偽であつて、実際は九月一四、五日頃、即ち、放火決意後、(証第一一号の商品台帳と題するノートを作成してから一日位後)古ノートの残りを利用して作成したものである。表紙が薄く、中味も薄いので、放火後厚いボール紙の表紙をつけたのであるが、その記載内容は、或いは、最初から全くなかつたものあり、或いは、又、最初はあつたがその後持ち出したものもある。火災に関係のない店舖の什器まで記載したのは、それ丈書き残すと帳簿自体が極めて不自然となり、後日放火して保険金を請求する際、帳簿の信用性がなくなるからである。これを作成した目的は、証第一一号の商品台帳と同様、興亜火災及び安田火災の保険金全額を貰わんがためである」旨の記載があるところ、被告人は、公判廷において「右ノートは実際に五月一日現在で作成したものであつて、それは、五月頃金融引締めのため、東京の問屋が倒れたという新聞記事を見たことがあつたので、資産を知るため作成したのである」旨供述している。(第一〇及び第一三回公判)ところで、「不動産什器覚」という名称を付したのは、俗にいわゆる「資産台帳」とか「財産目録」の類と同様のものを考えたものと解せられるが、右「不動産什器覚」と題するノートの体裁それ自体、全くその名称に相応しくないし、これに記載してある物件中には、この種の帳簿に掲げること自体吾人の常識に反すると考えられるものが尠からず、その他、右ノートの記載の内容については、疑問をさしはさむべき点なしとしない。即ち、

(イ)  右不動産什器覚と題するノートの第二枚目の表「自宅内家財什器」欄に、一旦、「ミシン(職業用)一 二万五、〇〇〇円、電気アイロン一 二、〇〇〇円、アイロン台五 二、〇〇〇円、剪台二(単価一、五〇〇円)三、〇〇〇円」と記載し、これを消した上、第二枚目の表「店舖内什器」欄に、右同一内容の記載があるところ、元来、八月一杯で仕立職人を本宅から店舖の方に移らせたため、右ミシン等は、それまでは本宅に置いてあつたのが九月一日からは店舖に移したのであるから、仮に、右ノートが五月一日現在としてその頃作成されたものであれば、「自宅内家財什器」欄に記載されていなければならない筈である。(被告人の検察官に対する一一月一日付供述調書第二三項参照)この点につき、被告人は、公判廷において、「第二枚目表のミシン等の記載部分は九月になつてから消し、第三枚目以下の部分を書き加えたものである」旨供述しているが、(第一三回公判)仮に然らば、第三枚目裏及び第四枚目表の「自宅収納衣類」欄も九月中に書き加えたことゝなり、右ノートを作成するに至つた真意が奈辺に在つたか、深く疑わざるを得ない。

(ロ)  右ノートの第一枚目の裏「自宅内家財什器」欄に記載してある「五球ラジオ(ナシヨナル)一 一万五、〇〇〇円」は、前記第四の四において説示した如く、被告人が火災当夜本宅から店舖に持出した証第四六号のシヤープ五球ラジオ一台に該当し、又、第三枚目の裏「自宅収納衣類」欄及び第四枚目の表「自宅衣類」欄に記載してある「大島、本麻、長襦袢、本ウルシ羽織、お召袷」等も、右同様、これ亦被告人が火災当夜本宅から店舖に持出した証第一二乃至第二五号の高級衣類のいずれかに該当するのであつて、火災による焼失を免れたものであるのに拘らず、九月三〇日、前記の如く、損害鑑定人等関係者が火災の状況、損害の程度等につき調査した際には、被告人は右ノートをも資料として示し、恰もこれ等のラジオ、衣類等も焼失して仕舞つたかの如く虚構の事実を主張し、損害鑑定人等関係者をして誤信せしめたのである。この点につき、被告人は、公判廷において、「保険会社の人が調査に来たとき、自分がどのような説明をしたか記憶がない」とか、「いずれも自宅に在つて焼けたものとして申告したが、自分は、その際気が顛倒していたのである」等と供述しているが、(第一〇回公判)右調査の際、被告人の態度は、極めて落着き、同和火災の松江出張所長である竹内四郎が、右証第一一号の商品台帳と題するノート及び証第一〇〇号の不動産什器覚と題するノートにつき、被告人に対し「よく整理してありますねえ」とて讃辞を洩らしたところ、被告人は「自分は、性格が几帳面で財産や商品が何時でも判るようにして置く」旨答えたのであつて、これによつても、「気が顛倒していた」旨の弁解は、到底、これを信用し難い。

(ハ)  右ノートの第二枚目の表に「油絵大額(独逸)ルノー一 五〇万円」との記載があり、その価格につき、一旦、五万円と記載してこれを消した上、五〇万円と訂正してあるところ、被告人の参考人としての司法警察員に対する供述調書(九月二八日付)末尾添付の被告人自筆に係る「焼失品什器」表には「油絵大額ルノー 一〇万円」、又、被告人の検察官に対する供述調書(一一月二日付)末尾添付の被告人自筆に係る「出火当時自宅にあつて焼失した家財什器」表には「油絵大額ルノー 五万円」とそれぞれ記載してあり、更に、昭和三三年四月一五日受付被告人名義「冒頭陳述書」と題する書面の別表のうち「尼川啓吾焼失所有美術品々名数量及価格」と題するものの番号五の部分に「油絵大額一個 三〇万円」とあり、その備考欄に「ルオー八〇号、時価五〇万以上の品」と記載してある。近代著名画家にフランスの「ルオー」とか「ルノアール」等の名前の人はあつても、「ルノー」という名前の画家のないことは、広く周知のところ、本件審理中、初めてこれを知つた被告人が前記「冒頭陳述書」と題する書面の別表で前記の如く書き改めるの余儀なきに至つたものであることが窺われる。この点につき、被告人は公判廷において「証第一〇〇号の不動産什器覚と題するノートに、油絵大額(独逸)ルノーと記載してある部分の(独逸)というのは、作者がドイツ人であるという意味ではなく、それは、自分が神戸にいた当時、ドイツ人からこの油絵を贈呈されたので、贈呈者がドイツ人であるということを表示したのである」旨供述している。(第一四回公判)油絵八〇号といえばかなりの大作であつて、実際に「ルオー」の作品があつたとすれば、相当高価なものであることは言を俟たないが、如上の経過、事情に鑑み、被告人が実際にかゝるものを所有していたということは信じ難く、仮に、被告人が何等かの油絵を所有していた事実があつたとしても、尠くとも、右ノートの油絵に関する記載部分は、全く虚構のものであるか、或いは、著しく誇張したものであると考えざるを得ない。

七、火災当夜本宅から店舖まで持出した高級衣類の風呂敷包を店舖の前の用水溝の中に投げ込んだこと等の事情(尼川美鶴、尼川ツルエ及び三浦一男の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、証人尼川ツルエ、同尼川美鶴(第三回公判)及び同三浦一男の各証言、尼川鶴枝名義一〇月二日付被害届、司法巡査嘉本春寿作成の一〇月二日付「火災発生後の捜査状況報告」と題する報告書等参照)

火災当夜、被告人が本宅から風呂敷包にした証第四六号のシヤープ五球ラジオ一台、証第二八乃至第三〇号の合背広一揃及びハンガー一箇の外、風呂敷包にしたズボン二枚、一重着物、浴衣等を持出し、更に、証第一二乃至第二五号の高級衣類をも証第二六及び第二七号の風呂敷に包んで本宅から持出し、これを店舖に運んだことについて、被告人の公判廷における弁解が極めて不自然であり、到底首肯し難いことは、既に、前記第四の四において説示したところである。而して、被告人は右衣類の風呂敷包を、店舖の家人の目につき難い場所に隠して置きながら、九月二九日、本宅の焼跡から焼残りのメリヤスシヤツ、ネルの寝巻等を持帰つた妻ツルエに対し「自分の大島上、下やお召、袴等も出たか」とか、「火災前盗まれたものと思われるから、直ぐ駐在所に行つて届けて置け」とか申向けた外、店舖に来た妹婿三浦一男に対し「不思議なことだ。わしの着物がない。誰か目の利く者の仕事だろう」と申向けたところ、これに対し、三浦が「焼けたものはないではないか」と答えたことは、被告人も、公判廷において争つていない。ところが、一〇月二日早朝、ツルエが店舖の戸をあけて屋外に出たところ、店舖の前の用水溝の中に、多数の衣類(証第一二乃至第二五号の高級衣類に該当)を風呂敷(証第二六及び第二七号の風呂敷に該当)に包んだものが押し込んであるのを発見して大騒ぎとなるや、屋外に出て来た被告人が「盗まれたものと思われるから、直ぐ駐在所に行つて届けて置け」と指示し、通報によつて駈けつけた嘉本巡査が右風呂敷包を持帰つた後、ツルエが記憶している高級衣類の品目等を被告人が私製葉書に記載し、(尼川ツルエの司法警察員に対する一〇月二日付供述調書の末尾に添付してあるもの)義鶴がこれを駐在所に持参して届出をなし、更に、同日ツルエ名義の盗難被害届を提出したこと及び右衣類の風呂敷包は、実際は、前記の如く、火災当夜被告人が本宅から持出しこれを店舖に運んで隠して置いたものであるところ、ツルエが発見した日の前日即ち一〇月一日夜、被告人自身これを用水溝に投げ込んだものであることは、被告人も公判廷において「自分は、道に抛つて置いたから、誰かが溝に蹴込んだと思う。検事には、自分が溝に入れたと供述したことになつているが、それは結果的にそのように述べたに過ぎない」旨弁解している外、殊更、争つてはいない。(第八回公判)被告人の検察官に対する供述調書(一〇月三一日付)に、被告人の供述として、「一〇月一日夜、家人の不在中、店舖の裏の空地の板塀と隣家飯田清一方板塀の間の通路の角に積んである石の間に一時隠して置き、同夜一一時頃、寝床から出て便所に行つた序に、石の間からこれを取出し、飯田方の板塀と店舖の板塀の間の道路を通つて表に出て、店舖の前の用水溝の中に抛つて押し込んだのであるが、それは、同夜、妻ツルエが、焼跡を調べたが、大島や良い着物の焼残りが出ないのでおかしいが盗まれたのではあるまいかと申していたので、火災前浮浪者が本宅に這入つてこれを盗んだものと見せかけることを考えたためである」旨の記載があるところ、被告人は、公判廷において「本宅から持出した衣類は、自分のものと妻のものであり、妻の了解を得ようと思つていたら、火事になつて仕舞つたのである。衣類を店舖の外に投げたときの心理状態は、大阪の妹から、母の位牌や仏様を本宅から出さなかつたと言つて叱られるので、着物丈出したと思われてはいけないと思い、店舖の前の道に蹴飛ばしたのであつて、この点に関する検事に対する供述は、空中楼閣である」旨供述しているが、(第一四及び第一五回公判)右弁解も亦、極めて不自然であり、到底これを信用することはできない。

八、前後二回に亘り、自ら江津警察署に出頭したこと等の事情

(森脇正、石原武富及び尼川美鶴の検察官に対する各供述調書、証人森脇正、同石原武富及び同尼川美鶴(第三回公判)の各証言等)

一〇月二日の件

一〇月二日、被告人は、自ら江津警察署に赴いて石原警部補に面接し、前記第四の五において説示した如く、前回即ち九月二八日駐在所で参考人として取調を受けた際の供述に間違つていた点があつたからこれを訂正するとて、火災当夜被告人が最後に七輪を置いた場所に関する新なる供述をなし、(被告人の参考人としての司法警察員に対する一〇月二日附供述調書第二及び第三項参照)右調書作成後、実際は、前記第四の七において説示した如く、火災当夜被告人が証第一二乃至第二五号の高級衣類を証第二六及び第二七号の風呂敷に包んで本宅から持出し、これを店舖に運んで隠して置いたものを前日即ち一〇月一日夜被告人自身これを用水溝に投げ込んだものであるのに拘らず、被告人は「一寸耳に入れて置き度い」との前置の下に、同警部補に対し、「今朝六時頃、妻が店舖の戸をあけたところ、前の用水溝の中に、米二斗袋大の風呂敷包があるのが発見されたが、それには焼けた本宅の箪笥の中にあつた筈の衣類が包んであつた」旨報告した外、「焼けた本宅で、重要書類は焼失したが、興亜火災の保険の関係書類は、店舖の手提金庫の中にあつたので焼失を免れた」旨述べた上、同所を辞去したこと、その際、同警部補は、被告人に対し、本宅で焼失した商品の明細書及び火災保険関係の書類の提出方指示したことが明らかである。而して、用水溝から衣類の風呂敷包が発見されるに至つたことの真相は、後日捜査の進展に伴つて判明したのであるが、一〇月一九日にも、被告人は同警部補に対し、火災の原因を不審に思うということを前提とし「最も判らん点は、一〇月二日朝、焼けた本宅の桐箪笥の中にあつた自分や妻の着物一六点の風呂敷包が店舖の前の溝川に投げ込んであつたことであるが、誰かが火災前本宅に這入り着物を盗み出し、それを店舖の前に持つて来て捨てたものと思う。九月二七日昼間ラジオの真空管を盗んだ者のいることと思い合せ、泥棒と火事の結びつきが考えられる」旨供述しているが、(被告人の司法警察員に対する一〇月一九日附供述調書第一七項)浮浪者が徘徊していたということを言い触らすことは、被告人として極めて重要な計画の一部分であつたことが窺われる。右の如く、一〇月二日「一寸耳に入れて置き度い」との前置の下に、同警部補に報告した際のことにつき、被告人は、公判廷において、「その時の心理状態は、自分にもよく判らない」旨供述しているが、(第八回公判)被告人が弁解に苦慮していることにつき、疑の余地がない。

一〇月四日の件

石原警部補の右指示に基き、被告人は一〇月四日、江津警察署に出頭したところ、恰も、同警部補は会議に出席中であつたので、森脇巡査部長に面接し、証第七号の商工会雑款と題する書類綴一冊、証第八号の売上帳一冊、証第九号の資産負債明細と題する書面一通及び証第一〇号の根抵当権設定極度額手形割引契約書副本一通を提出したのである。(被告人の参考人としての司法警察員に対する一〇月四日附供述調書第一乃至第七項参照)然るに、右提出物件は、いずれも石原警部補の指示に係るものでなかつたのであるから、その記載内容及びこれが提出の目的について、検討する必要なしとしない。

(イ) 証第七号の商工会雑款

これは、商店会関係の書類綴であるところ、被告人は森脇巡査部長に対し、「平素は、店舖に置いているが、火災当夜は、本宅における商店会の会合の際持つて行き、終了後店舖に持ち帰つた」旨供述した上、右商工会雑款の第一枚目の表に「商協の件二八日出松する」と記載してある部分を示し、「火災の翌日たる二八日には、朝一番のバスで店舖を出て松江に行くことに決議されていたのである」旨説明したのであるが、被告人が如何なる必要に基き、殊更、二八日に松江に出かける予定であつたことを説明したか、その理由は明白でないとはいうものゝ、前記の如く、被告人が、浮浪者の徘徊する事実があるかの如く言い触らしたこと、従前、被告人自身が本宅をあけて店舖に泊つたことは殆んどなかつたのに、商店会の会合が催された九月二六、二七両日の夜は、美鶴が留守であることを理由として、平常本宅で被告人と起居を共にしている妻ツルエ及び弐女さゆりに対し、本宅から店舖に出て寝泊りすべく指示し、且被告人自身本宅から店舖に出て泊つたこと、二八日の一番で松江に出るのに着て行くという理由で、合背広一揃等を持出したこと等諸般の情況に照して考え併せるとき、殊更二八日に松江に出掛ける予定であつたことを説明したということは、これ亦注目に値するものといわざるを得ない。

(ロ) 証第八号の売上帳

被告人は、火災当時における被告人方店舖の経営状態を説明するための資料として、右売上帳を提出した上、森脇巡査部長に対し、「昭和三二年一月から同年九月の火災当時までのすべての実際の売上が記載してある」旨説明したのである。併しながら、右売上帳は、一〇月二、三日頃、次に記載する如く、長女美鶴が被告人の指示に基き、架空の数字を以て水増記載せる虚構の内容のものであることは、諸般の証拠によつて明らかである。即ち、実際の売上金額は、証第八〇号の一乃至九の売上日計表及び証第五〇号の出納簿の記載によつて明らかであるところ右売上帳の七月分までは、被告人自身これを記載し、八月分と九月分は、美鶴が概ね、実際の売上金額の二倍位に水増記載し、そのうち、八月一四日の分は、盆の中日だからとて、更に、一万円水増して、金額を四万八九四円と訂正した上、小計は美鶴が四二万六、一八一円と記載し、累計は、被告人自身四七四万二、四九五円と記載したのである。なお、八月分のうち、八日から一五日までの日計表がなかつたので、この部分は、資料なくして全く架空の数字を記載したのである。被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二三日附)に、被告人の供述として、「美鶴に対しては、金融機関から営業成績の調査に来た際の資料にする旨説明したが、実際は、右売上帳は、万一放火の嫌疑を受けても、これを免れるべく、営業成績が良好で金に困つていなかつたということを装うため、一〇月三日美鶴に記載させたのであつて殊更美鶴に記載させたのは、記載の信用性を保たんがためである」旨の記載があるところ、何故にかゝる虚構の内容の売上帳を江津警察署に提出したか、その目的につき、被告人の公判廷における弁解には、全く、首肯せしめるに足るものがない。

(ハ) 証第九号の資産負債明細と題する書面

右書面は、一〇月二日附を以て作成され、九月二七日現在としてあるところ、被告人は森脇巡査部長に対し、「負債も資産も真実ありの侭記載し、これに記載してあるもの以外の借金は一つもない」旨説明したのである。然るに、右記載内容に真実に反する部分のかなりあることは、到底否定し難い。先ず、負債関係の欄をみるに、借入金の貸主、口数及び金額の各点において、殆んど実際より少なく記載してある。備考欄に「売掛金約二〇万円あれども買掛金と相殺」との記載があるが、これ亦事実と著しく異る。次に、資産関係の欄をみるにその末行に「現金九月二十七日現在手許現金」として「二〇万五、八四二円」との記載があるけれども、これが二〇万円水増記載したものであることは、証第五〇号の出納簿の記載に徴して明らかである。被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二三日附及び一一月六日附)には、被告人の供述として、「火災当日の手許現金が二〇万五、八四二円であつたというのは嘘で、出納簿の九月二七日欄に記載のとおり、五、八四二円が本当で、自分は、この資産負債明細書を警察に出すとき、若し、警察の取調があれば、当時自分は、十分資金があつたから、保険金欲しさに放火する訳がないということを警察官に思わせるため、二〇万円水増して書いたものである」旨の記載があるところ、この点につき、被告人は、公判廷において、「金庫の中の現金は、五、八四二円であつたけれども、現金に準ずるもの、即ち、担保に供していない預金等を加えて、二〇万五、八四二円と記載したのである」旨供述し、(第八及び第九回公判)弁護人は、これが裏付証拠として証明書等八通を提出したのである。((1)商工組合中央金庫松江支所長久保博和作成名義昭和三三年四月一五日附預金残高証明書(2)株式会社松江相互銀行江津支店作成名義同年四月一一日附残高証明書(3)跡市農業協同組合長理事吉田英勝作成名義同年四月二五日附証明書(4)江津信用金庫跡市支店作成名義同年四月二五日附証明書(5)吉村一男発起講、佐々木正信発起講理事森脇房市作成名義「証」と題する書面(6)吉田幸勝発起頼母子講理事吉田恒治作成名義同年四月一六日附「証」と題する書面(7)都野津信用組合長理事作成名義同年五月九日附普通預金残高証明書及び(8)牧ユキエ作成名義同年四月三〇日附「証明」と題する書面参照)成程、右証明書等八通の各金額を合算してみれば、一九万九、七二四円となるけれども、本来、かゝるものを現金に準ずるものとして、手許現金に加えるということ自体、全く吾人の常識に反することであるのみならず、右資産負債明細と題する書面の資産関係の欄の終から二行目に「預貯金中金外」として「一二万三、〇〇〇円」の金額の記載があることに徴しても、被告人の「現金に準ずるもの云々」との弁解は全く無意味のものであることが明らかであるというべく、この点につき、被告人は、公判廷において、「一二万三、〇〇〇円の預貯金は書くべきではなく、これを書いたのは間違であつた」旨供述しているのであるが、(第九回公判)全くとるに足らぬ弁解といわざるを得ない。

(ニ)  証第一〇号の根抵当権設定極度額手形割引契約書副本

これは、昭和三二年九月一二日、商工組合中央金庫松江支所において、金六〇万円を以て極度額とする根抵当権を設定した際の手形割引契約書副本であるところ、被告人は、これを示した上、森脇巡査部長に対し、「自分は、これによつて二五万円借入をしているのみであつて、なお、三五万円の借入が可能であり、この三五万円のうち一〇万円を仕入資金として大阪に送り、残額二五万円で手形の始末をする考えであつた」旨説明したのである。併しながら、仮に、右三五万円を借入れることができたとしても、当時の被告人としては、それ丈更に負債が増加するのみで、前記の如き経済面での窮境を打開するにつき、これのみを以ては何等の用もなさなかつたのであろうことは、毫も疑をさしはさむ余地がない。然るに、右の如き説明の下に、敢てこれをも提出したことにつき、被告人の公判廷における弁解には、全く首肯せしめるに足るものがない。

九、証第五〇号の出納簿及び証第五一号の仕入帳を隠匿した事情

(尼川美鶴の検察官に対する供述調書、司法警察員巡査部長森脇正作成の一〇月二三日附捜索差押調書等参照)

右出納簿及び仕入帳は、いずれも昭和三二年度のものである。被告人方の出納簿は、営業帳簿と家計簿を兼ねたものであつて、毎日の売上や営業資金の借入は勿論、利息や延滞金の支払、副食物、煙草一箇、子供の学用品等の購入、理髪代に至るまで、凡ゆる収入、支出は、細大洩らさず記入されることになつており、又、仕入帳には、実際の商品仕入の関係をその都度記載することになつているのであつて、右出納簿及び仕入帳をみれば、被告人方店舖の経営状態殊に、資金の回転状況、家庭生活の内容等の実体を把握することができる。火災後、長女美鶴が大阪市から帰つて来た際、被告人は美鶴に対し、出納簿と仕入帳は本宅に持帰つていたから焼失して仕舞つたかも知れないが、一応捜してみるべく指示したけれども、美鶴は遂に捜し出すことができなかつたのである。警察官に対しても、当初は、「焼けた本宅で重要書類は焼失した」旨述べていたが、(被告人の参考人としての司法警察員に対する一〇月二日附供述調書第八項参照)被告人の逮捕後たる一〇月二三日に至り、森脇巡査部長は、被告人の自供に基き、被告人の店舖において、右出納簿及び仕入帳を発見したのである。即ち、それは、証第五二号の古新聞紙(昭和三二年九月二五日附朝日新聞)に包んで、店舖二階六畳の間の西側押入前板の間に積んであつた古雑誌の上から一二冊目、下から二三冊目の間にあつたのであるが、被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二三日附)には、被告人の供述として「新聞紙で包んで二階の古雑誌の間に隠して置き、妻や長女には、焼けて仕舞つた旨嘘を言つて置いた」旨の記載があるところ、この点につき、被告人は、公判廷において、「二階の雑誌の上に置いていたのを忘れて仕舞つたのであつて、決して隠したものではない」旨供述しているが、(第八及び第一五回公判)右出納簿及び仕入帳が店舖における毎日の営業及び一家全員の日常生活上、必要欠くべからざるものであつて、被告人が逮捕されるまで置場所を忘れていたということは、当然には、その侭これを信用することができない。被告人の自供に基き、発見されるに至つたこと、発見された場所的関係、古新聞紙で包んであつた状態等諸般の情況に鑑み、被告人が殊更これを隠匿したものといわざるを得ない。

一〇、証第五五乃至第七八号、第七九号の一乃至一二、第八〇号の一乃至九及び第八一号の一乃至六の各物件を大阪市まで運んだ事情

(牧ユキエの検察官に対する供述調書、司法警察員巡査部長森脇正作成の一〇月二五日附捜索差押調書及び現場写真撮影報告書等参照)

被告人が警察官に対しても、当初は、「焼けた本宅で重要書類は焼失した」旨述べていたが、被告人の逮捕後たる一〇月二三日に至り、被告人の自供に基き、証第五〇号の出納簿及び証第五一号の仕入帳が店舖において発見されたことは、前記第四の九において説示したとおりであるが、検察官の一〇月二三日の取調の際にも、最初は、「昭和三二年度の出納簿や仕入帳等が残つている外、昭和三一年度以前のものは、焼失して仕舞つた」旨述べ、取調の進行に伴い、遂に、「店舖に炊事場を増築する資金及び当座の応急資金を調達すると共に、証拠を隠匿するため、一〇月六日、大阪市に出掛けた」旨供述するに至つたのである。(被告人の検察官に対する一〇月二三日附供述調書第一〇及び第一四項参照)よつて、被告人の右自供に基き、同月二五日、森脇巡査部長は、大阪市南区河原町二丁目大阪陳列株式会社従業員寮内被告人の長男誠の居室で、被告人が運んだ物件を発見したのである。それは、証第五五乃至第七八号、第七九号の一乃至一二、第八〇号の一乃至九及び第八一号の一乃至六の各物件を証第八二乃至第八四号の風呂敷、包装紙及び紙紐で風呂敷包とし、これを長男誠の右居室の押入の中の一番上の小さい棚に隠してあるのが発見された。被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二三日附)には、被告人の供述として、「日記類は、これによつて、資金に苦しんでいた事情が判明し、支払済手形は、いずれも期限より遅れており、仕入伝票(出金伝票、買掛帳等仕入関係帳簿類を指すものと解せられる)によつて、仕入れの増減が判り、又、売上日計表によつて、真実の売上が一目で判るのみならず、証第八号の売上帳の記載が嘘であることが判明し、要するに、放火して保険金を詐取せんとしたことが発覚する虞があるので、大阪市に運んで隠したのである」旨の記載があるところ、被告人は、公判廷において、「火災保険のことで厄介な取調があるかも知れんと思つて持つて行つたが警察そのものよりも、金融機関から金を借りているのがばれるからである」旨供述し、(第二回公判)又、「帳簿類は本当のことを書いたものであることは間違ないが、大阪市まで運んで隠したのは、金融機関に見られては都合が悪いからである」旨供述している。(第八及び第一五回公判)併しながら、仮に、金融機関の係員が調査のため来店することがあるとしても、被告人が自発的に差出さない限り、金融機関の係員としては、強制力を用いて帳簿類を捜索する権限はないのであるから、金融機関に見られることを恐れて大阪市まで運んで隠匿するということ自体全く無意味であるといわざるを得ない。(なお弁護人は、「被告人が大阪市の牧方まで運んだ帳簿等は、昭和三二年度の商況や火災による損害とは全く無関係のものである」旨主張するところ、昭和三二年度の営業が従前の営業を基礎として経営されていたことは当然であり、昭和三二年度の営業の内容と従前のそれとは有機的に一体を成すものであるから、元来、昭和三二年度の帳簿等のみを以て、同年度の営業の実体即ち経営状態を正確に把握することは、寧ろ容易でないといわなければならない。

第五、被告人の捜査官に対する自供の任意性及び信憑性に関する点について

大脇、原両弁護人の所論を要約すれば、「(一)本件火災発生の箇所は、実際は、本宅の二階の前側(南側)であつて、階下六畳の間ではない。而して、火災の原因は、屋内の不完全なる配電施設による漏電である。(二)被告人の本件火災当時の負債は、前年同期のそれよりも減少し、反面、手持商品は漸増して商況は良好であつた。債権者のうち、親族は、敢て請求せず、又、その他の債権者でも強く督促した者はなかつた。当時、被告人としては、手形の支払に窮しておらず、又、資金の入手に行詰つていなかつた。(三)本件において、被告人は保険金詐取の目的で本宅家屋に放火したとの嫌疑を受けているが、保険金を入手したとしても、これよりも実際の損害の方が大である。(四)火災前後における被告人の行動には、不審の点が全くなかつた」というに帰着し、更に、これを前提として、「(五)被告人は、警察官或いは検察官から自白を強要され、遂に、迎合的自供をなすに至つたものであつて、右自供には任意性がなく、又、その内容は真実性のない虚偽のものである」旨主張するところ、弁護人の右(一)乃至(四)の所論が主として被告人の公判廷における弁解を根拠とするものであるか、或いは、単なる想像に止まるものであつて、いずれも理由のないことは、如上の説示によつて明らかであるから、進んで、(五)被告人の捜査官に対する自供の任意性及び信憑性に関する点について考察する。

一、自供の任意性の有無

当裁判所が被告人の参考人としての司法警察員に対する供述調書(九月二八日附、一〇月二日附及び一〇月四日附)、被告人の被疑者としての司法警察員に対する供述調書(一〇月一九日附一〇月二〇日附、一〇月二一日附の分二通及び一〇月二三日附)被告人作成名義始末書(一〇月二二日附)並びに被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二三日附、一〇月二四日附、一〇月二五日附、一〇月二九日附、一〇月三一日附、一一月一日附一一月二日附及び一一月六日附)の取調をなした際、弁護人としては、被告人の捜査官に対する供述の任意性それ自体は、これを争つていなかつたのである。然るに、弁論において、初めて、被告人の供述に任意性がない旨の主張がなされたのであるが、弁論の全趣旨を通じ、所論の趣旨は結局被告人の供述の信憑性を争わんとするに在ることが窺われるけれども、一応、被告人の供述の任意性の有無について判断するに、先ず、始末書作成の事情につき、被告人は、公判廷において、当初は、「検事から脅迫、拷問を受け、始末書を書けといわれたので、夜自分がこれを書いた」旨供述し、(第六回公判)次には、「第六回公判で検事の脅迫、拷問云々と供述したのは、自分の言い間違である。実際は、始末書は、検事との合作である」旨供述している。(第一〇及び第一五回公判)而して、捜査官の取調状況に関する公判廷における被告人の供述を要約すれば、結局「江津警察署において、警察官は、親切な点もあり、又、きつい点もあつたが、無理な取調はなく、石原警部補の取調は、大体柔らかであつた。唯、一〇月一九日、自分が逮捕された日の当夜、松田巡査部長は、自分に対し、何時までも頑張つていたら、勾留が長引き、妻や娘も引張られるが、そうなれば店は全滅ではないかと申され、又、金山刑事も、あなたのことを署長が心配しているが、あなたの場合は、此所で済まして上げると申されたので、自分は、何時までも犯行を否認していたら、娘も引張られ、店は破滅して仕舞うと思い、帰宅し度いばかりに虚偽の自白をしたのである。次に、検事に脅迫、拷問を受けた訳ではないが、きつい取調であつた。検事からこうであろう、あゝであろうと問われて、そのとおり答えざるを得ないようになつたのである。又、検事は、直ぐ、始末して上げる、簡単に済まして上げると申されたので、早く帰宅し度いばかりに、でつち上げられた空中楼閣を不安に思いながら認めたのである」というに帰着する。(第一〇、第一二、第一五及び第一七回公判)併しながら、右供述自体に徴しても、その中の任意性を否定するかの如き言辞は、到底、その侭には受取り難い。のみならず、これを被告人特有の性格と併せ、且、公判廷における右の如き供述の経過、供述態度の推移、前掲被告人自筆に係る始末書等と比照検討すれば、一層、その根拠なき所以が明らかである。その他、被告人の捜査官に対する供述の任意性を疑わしむべきものはない。(被告人が虚栄心強く、著しく誇張する性癖のあることは、石原警部補の取調を受けた際「店舖における収入(利益)は、売上金の一割五分に相当するが、実際に、毎月平均一〇万円の純益があつた」旨供述していることによつても窺われる。被告人の司法警察員に対する一〇月一九日附供述調書第六項参照。又、浜田簡易裁判所における被告人の裁判官原吉蔵に対する被疑者陳述調書には、逮捕状請求書記載の被疑事実を読み聞かせた上、「右事実について陳述することがあるかどうか」との問に対する被告人の答として、「お読み聞けの事実は、そのとおり相違ありません」との記載があるところ、被告人は、第一二回公判で、「浜田の裁判所で裁判官の質問を受けたことは記憶がない」とか、「裁判官の前に出たことは憶えているが供述の内容については記憶がない」旨供述し、或いは、第一七回公判で、「検事が帰らしてやると申された後であつたから、裁判官から問われたとき、私は、そうですと、答えたのである」旨供述しているが、公判廷における被告人の右の如き供述態度は、極めて不可解であるといわざるを得ない。)

二、自供の信憑性の有無

弁護人は、火災前後における被告人の行動には、不審の点が全くなかつたということを前提として、「被告人の捜査官に対する自供は、迎合的供述であつて、その内容は真実性のない虚偽のものである」旨主張し、その主たる理由として「(1)自供の内容たる放火手段が複雑多岐であつて、幾多の矛盾、不合理を含み、供述の経過をみても、各段階毎に供述の内容を異にし、その一貫性がない。(2)自供の内容たる犯行の動機の点も、入手し得る保険金よりも実際の損害の方が大であるという矛盾があり、焼失せる高級衣類の点数や商品台帳の記載についてまで、迎合的供述をなしている。(3)抑も、被告人と弟妹との情誼豊であつて、仮に、火災当時、被告人に六〇数万円の緊急借財があつたとしても、妹たる牧ユキエの援助により、これが解決は容易である。ユキエは、夫に内密にしてまで巨額の財政的援助を惜しまなかつたのであるから、当時、被告人としては、放火して保険金を詐取しなければならない程逼迫していなかつた」旨主張しているのである。併しながら、右所論がいずれも根拠なきものであり、従つて、被告人の自供が信用すべきものであることは、前掲各証拠、殊にこれに対する判断につき、既に、詳細に説示せるところによつて、自ら明らかであるから、以下、若干の補足的説明を加える外、敢て、再説の要をみない。

1、犯行手段

これに関する主たる自供としては被告人の司法警察員に対する供述調書(一〇月二〇日附)中被告人の供述記載、被告人作成名義始末書の記載及び被告人の検察官に対する供述調書(一〇月二九日附)中被告人の供述記載があり、その記載内容は、成程、細部において、若干の変遷の跡があり、一致しない部分のあることが認められる。併しながら、これを以て供述相互間に本質的矛盾ありとするのは当らない。蓋し、殊に、計画的犯行の場合、その犯行の自供に当り、先ず、真実の一部を自供するに止め、或いは、故ら、若干の虚構を混えて自供し、取調の進展に伴い、証拠の蒐集によつて、客観的事実が明らかになるにつれ、取調官から従前の供述のうち、矛盾せる部分を指摘されて改め、逐次、真実を自供するに至る事例もあり得ることであつて、取調を受ける供述者のかゝる心理を念頭に置いて考察すれば、前記程度の供述内容の変遷は、敢て、これを以て異とするに足りない。又、放火方法の複雑性の点も、本件犯行の計画性、被告人特有の性格、判示認定の如き犯行の際における被告人の心理、殊に、犯行の発覚を恐れての配慮等を併せ考えるとき、敢て、被告人の検察官に対する自供に係る放火方法を以て不自然となすことはできない。(被告人が本件火災の三、四日前たる九月二四日本宅内の商品との均衡を保つという理由で、興亜火災との間に、店舖内の商品を目的とし、保険金額五〇万円の追加保険契約を締結した事実は、本件犯行の計画性の一端を示すものと解せられる。証第一〇八号の火災保険契約書、田島義則の検察官に対する供述調書等参照。たゞし、保険料支払の事実については、証第五〇号の出納簿に記載がない。)

2、犯行の動機

弁護人は、「本件において、被告人は、保険金詐取の目的で本宅家屋に放火したとの嫌疑を受けているが、本宅を焼燬すれば、家屋の再建築に三〇〇万円を要し、店舖に居住するとしても、その増、改築に一〇〇万円以上を必要とする。又、商品の損失のみでも、原価一五〇万円、小売価格二二〇余万円に達し、保険金を入手したとしても、これよりも実際の損害の方が大である。更に、焼失せる高級衣類の点数や商品台帳の記載についてまで、迎合的供述をなしていること等によつても、被告人の自供が真実性のない虚偽のものであることが明らかである」旨主張するところ、弁護人の右の如き「入手し得る保険金よりも実際の損害の方が大である」ということを理由とする犯行動機否定論が理由のないことは、既に、明らかであるから、これに対しては、次の三点を指摘するを以て足りる。(1)被告人が判示認定の如く、窮境に在つたことは、前掲各証拠、殊に、これに対する判断につき、既に、前記第二の一乃至四において説示せるところによつて明らかである。(2)所論は、事後における第三者の立場よりする冷静な計算に過ぎない。仮に、焼失による損害が保険金より、計算上、結局大であつたとしても、これと犯行動機の形成とは、一応別である。(3)被告人の場合、本宅を焼失しても、別に店舖を持ち、店舖の経営自体は、(現金さえ入手できれば)一応、可能であつたという実情に在る。(なお、右(2)の点について、次のとおり附加する。仮に、被告人が本宅内に或る程度の商品を有していたとしても、本来、商品というものは、これとこれに対する一般消費者の需要との均衡が保たれ、以て、資金回収の可能性なき限り、商品としての経済価値は、問題にならない。巷間において、多量の商品の滞貨を抱えている商人にして、これをもてあまし、動きのとれない侭、倒産して仕舞つたり、種々不祥事故を惹き起すという事例は、決して珍らしくない。殊に、繊維製品は、一般にいわゆる流行の移り変りの激しいものである。被告人の場合、数年間に亘る売れ残り商品のストツクも、その大半は、手形によつて仕入れたものである実情を度外視することはできない。ところで、被告人の検察官に対する一〇月二四日附供述調書には、被告人の供述として、九月一九日、安田火災関係の二〇〇万円の火災保険契約締結の際の心境につき、「期限の迫つた多額の借財があつて、殊に、九月末までに払わなくては義理が立たない事情の下に在り、一方、商品のストツクは増加し、資金は入らず、到底、現金入手の見込なく、現金なら飛びつき度い位焦つていた」旨の記載があるところ、犯罪者の特異な心理を理解せず、或いは、これを無視して、単に、事後における第三者の立場よりする冷静な計算をなしたところで、真相の把握は、到底これを期待し得べくもない。)

3、牧ユキエの援助

牧ユキエは、被告人の妹であり、同女の夫牧春三郎は、成功して大阪市南区河原町二丁目において、大阪陳列株式会社を設立し、目下、陳列棚の販売業を営んでいる。牧ユキエの司法警察員及び検察官に対する各供述調書によれば、火災当時までに被告人がユキエより融資を受けた金額は、(1)昭和二九年二月一三日頃、金二〇万円(2)昭和三〇年二月一四日頃、金二〇万円(3)同年六月三〇日頃、金一五万円(4)同年九月五日頃、金一二万円(5)同月一八日頃、金一〇万円(6)昭和三一年三月一六日頃、金一万円及び(7)昭和三二年七月三一日頃、金五万円、以上、三年半の期間中、前後七回に亘り、合計金八三万円であつたこと、右のうち、(1)及び(2)の分合計金四〇万円については、服地三〇着分と現金で、既に、支払済になつており、その他の分は未払の侭であつたこと、兄妹の間柄であるところから、期限について一定の約束なく、できる丈早く支払うという程度の約束があつたに過ぎないことが認められる。右事実を通じ、火災当時までに被告人がユキエから或る程度の援助を受けていたことを窺い得るけれども、右援助の程度に自ら限界のあつたことは、ユキエの援助が夫に内密になされていたことに徴し、又、証第三一号のユキエから美鶴に対する手紙、証第四七号の美鶴の日記帳等によつても容易に窺われる。成程、火災後にあつては、ユキエの援助も、弁護人所論の如く、相当行われているが、火災前と火災後(殊に被告人に対する本件起訴後)とでは、その事情が根本的に異るのであつて、火災後の援助の事実を以て、火災前の援助を推論し得ないことは、いうまでもない。

よつて、弁護人の主張は、すべてその理由がない。

(法令の適用)

法律に照すに、被告人の判示所為は、刑法第一〇八条に該当するところ、所定刑中有期懲役を選択すべく、所定刑期範囲内で被告人を懲役六年に処する。領置に係る主文第二項記載の物件は、本件犯行に供した物であつて、且、犯人以外の者に属しないから、同法第一九条第一項第二号、第二項により、これを没収すべく、訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文によつて、全部被告人に対し、これが負担を命ずる。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 組原政男 西村哲夫 武波保男)

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